――それがアニメ制作を始めていくきっかけになるんですね。

「当時はまあ、原稿料も大分あがってきましたから。それで『やれないこともないな』、と思っている矢先に、僕が『Zボーイ』というのを当時、『日の丸』という雑誌で連載を始めたんですよ。それを見て東映のプロデューサーが、僕のところに『アニメやらないか』みたいな話をもってきた。『Zボーイを見たんだけど、九里さん、おもしろそうです。アニメに向きそうですから。絵柄もね』と言ってくれたんです。当時は、もう法人でやっていましたし、社長が吉田竜夫ですから、僕はやりたかったんですけど勝手にできないからね。『東映がバックだったら、作れないこともない』ということで、返事だけは『まあ、やらしていただきたいですけども、ちょっと社長に相談してみます』ということにして。そうしたときにですね、笹川氏もそばにいて、『やりましょうよ』って(笑)。吉田竜夫氏も全然アニメは知らないわけですから、僕なんかでもできるものだと思って。笹川氏が『僕なんかも手伝いますよ』ということで、前から興味をもっておられたから『こりゃいいな』と。『じゃ、やろうじゃないか』『やるためには、どうしよう』なんてことで盛り上がりました。それが始まりですね」

――でも、結局そのお話は、白紙に戻されてしまうわけですね。にもかかわらず、最終的に『アニメを作ろう』ということで、社長の竜夫さんがリーダーシップを発揮して、それでタツノコさんだけで制作されたのが、第1回作品となった『宇宙エース』なんですね。

「ええ、そうです」

――その『宇宙エース』は、手塚さんの『鉄腕アトム』であるとか、東映さんの『狼少年ケン』みたいな丸っこい感じのキャラクターでした。そこから第2作目は、突然『マッハGoGoGo』のあのリアルな絵柄になるわけですけれども。

「言ってみれば、雑誌の当時からタツノコは、ああいう絵柄が本流だったんです。それを一本の線にまとめていくと、やっぱりああいう『マッハGoGoGo』のような絵にもなるわけです。だけどねえ、私たちはそんなに描きにくくはなかったんだけど、あれが動くとなると、やはり複雑すぎるのと、動画までいきますと器用な人だけれどもデッサンができてないという人がいっぱいいるわけです。だから、アトム的なお人形さんのような絵にはついてこられる人はいても、人間らしさというのはデッサンですね、結局。それについてこられない人が当時はいたわけです」

――すると、この話を実現しようとしたあたりのところで、ちょっとスタッフからは、『やっぱりやめておいたほうがいいんじゃないか』みたいな声も……。

「いや、それもありました。私もどちらかというと反対ですね。ああいう絵柄はね」

――九里さんのお描きになった『マッハ三四郎』と竜夫さんの『パイロットA』。カーレースとかアクション的なものがベースになって、この『マッハGoGoGo』の企画になっているということですか。

「そうですね。まったく、そうですね」

――登場人物についてなんですけれども、ファミリードラマ的な部分もありましたね。例えば、お父さんが非常に頼りになるマッチョな強いおやじみたいな部分があって、あのあたりは、ちょっとアメリカ的な……。

「ええ、そう。それも『マッハ三四郎』をベースとしていましたから、親子の個性を出していたんです。ところが『マッハGoGoGo』という、それはあのカーレースになってから、その要素がちょっと薄れてきたんです。一応、雑誌では成功したんだけども、テレビで観てね、30分間走って動いてみたいな。それのほうが比重が多くなってしまったんです。それはなぜかといいますと、走っているんですよ、マッハ号が。スピードにのって走ってるでしょ。音楽がのるだけで気分がいいわけでしょ。だから、そっちのほうが優先されてきたんです」