鍵を開けて彼女が部屋にやってきた。
もっとロマンチックな言い方はないのか? といつも僕は笑う。
来たよ! ってまるで出前みたいじゃないか、って。
そう言いながらも、彼女のその言葉にはいつも救われている。笛の音のようなキレのいい響きが、僕の心を清めてくれるようで。
「まずはおつまみ。」
彼女はそう言って、彼女の実家がやっているお惣菜屋さんの、手作りのポテトサラダをタッパーから出した。僕の大好きな一品で、具は少なめでじゃがいもがごろごろしていて、自家製マヨネーズがたっぷりで、黒胡椒が効いているのだ。
「近所のおじいちゃんとか、黒胡椒いらないっていう人もいるから、店では後から挽いてかけるんだよ。ここに来るときはたっぷりかけてくる。」
と彼女は言った。
僕がてきとうに実家から持ってきたいつもの白いお皿に、彼女はポテトサラダをもりつけた。
「仕事慣れた? 」
彼女は言った。
「うーん、まだよくわかってないことが多くて、毎日覚えるのとついてくので必死。」
僕は言った。
僕はこの四月に、主に飲食店関係のメニューやwebのデザインをしている小さなデザイン会社に就職した。大学の先輩が起業して作った会社だ。忙しさにはムラがあり、大変なときは必死で締め切りをこなさなくてはいけない。そしてひまなときは不安になる。
「相手があるお仕事だからね。」
箸を出しながら彼女が言った。
「相手がない仕事なんてないって。君だって町中のひとり暮らしの人たちや、主婦を助けてるじゃない。」
僕は言った。
彼女のお兄さんが地方の大学に行きそのままそこで就職することになったので、彼女は実家を継ぐことになり、やはり四月からいろいろな講座やネットで経営を学びながら店を回している。前は支店が二軒あった彼女の実家の商いは、規模を縮小して本店だけになっていた。
「そうだね、確かに。今日もがんばったし、夜は仕込みにもどらなくちゃ。パートのお料理うまい人がやめちゃってさ。」
彼女は言った。
「泊まれないのかあ。」
僕は言った。
「でもその後また戻ってくるかも。明日あなた休みだもんね。」
彼女は笑った。
「こっちは夜中に来てくれても全然かまわないけど、倒れるなよ。」
僕は言った。
「うん、倒れないようにしてる。」
彼女は言った。
「乾杯しよう、今日も。あなたの永遠の定番、黒ラベルで! 」
「うん。」
僕は冷蔵庫から冷えたビールを出した。つきあってもう三年、いつも僕の好きなこのビールで僕たちは乾杯をしてきた。死んだ父がいちばん好きだったビールを僕が受け継いだ。実家は新幹線の駅ひとつの場所にあるのだが、僕は東京でずっとひとり暮らしをしていた。実家に帰って集まるときも、うちはいつもこのビールだ。
ふたりで乾杯をして、いつものようにビールを飲んだ。喉が冷えて苦味が食欲を誘う。ポテトサラダをつまんでいる間に、彼女が切り落としの生ハムを皿に出して、パスタを茹でてくれる。
「パスタは俺がやるよ。」
僕は言った。
「ううん、店から本格的なミートソース持ってきたから。チーズある? 」
「あるある。思う存分かけていいよ。」
僕はまた立ち上がり、冷蔵庫の奥から粉チーズを出した。彼女はチーズが好きなのだ。
ささやかな僕たちの宴。あまり出かけないし、地味だし、もめごとも少ない老夫婦のような僕たちだけれど、学生のときに比べて会う回数はやっぱりものすごく減った。
「ビールおいしいねえ、ポテトサラダに合いすぎる、いつもながら。」
缶を片手にした彼女は幸せそうだった。この顔があれば、耐えられる、新しいこと、変わっていくこと、たまっていくモヤモヤに。
「いっしょに暮らせたら、もっと会えるのかな。」
僕は言った。
「そうだけど、お互い忙しいから今は意味ないかも。」
彼女は言った。
「そうだね。」
僕は言った。
「前は休みの日の前なんて、夜遅くまで映画観たり、そのままノリで深夜営業の飲食店巡りしたり、明け方に市場に行ったり、帰ってきて昼中寝たり、自由自在だったもんね。」
彼女は懐かしそうに言った。パスタを茹でるお湯が沸いて、部屋を湯気が満たす。ビールの冷たさがいっそうしみてくる。
「ああいうの、もうできないのかなあ。」
僕は言った。失った自由がビールの苦さといっしょにしみてきた。
「うん、しばらくはむりかもね。でもさ、ほら、お金は少し多く入ってくるから。いっしょに住むところ探したり、温泉とか行けちゃうかもしれないじゃない、そのうち。」
彼女は目をきらきらさせていた。明日を見てる。疲れてる場合じゃない、そういうことを考えたい、僕の疲れてダルい心や、叱られてがっくり来たことや、そういうものが彼女の声でしゅっと切り替わった。「来たよ! 」を聞いたときと同じように。
「それに、こんなに生き方が合ってる人を見つけたことがまず宝だよ。」
彼女は言った。
「そうだな、クラブとか行かないで部屋で節約ディナーして、映画観て、安い店巡って。あっというまに三年経ったから、きっと温泉に至るのもあっというまなんだろうな。」
僕は言った。
「ま、落ち着いたら結婚して、新婚旅行にタイとかインドとか行って、ひたすらカレー食べよう。きっとお祝い金ももらえるし。休めるし。台湾で牛肉麺でもいいよ。社会人になっていろいろ失ったけど、今は今。またなにかしら自由を得ていくんだよ、違うやり方で。」
彼女は言った。
「俺は次男だから、全然家族も戻ってこいとか言わないし。いつでも結婚できるよ。」
僕は言った。
「なにそのプロポーズ。つまらなさすぎる! ほんと、私たちって、平和すぎ。平和なまま、平和な子どもを作って、世界に平和を広めよう。」
彼女は言った。
「そうだねえ。きっとのんきな子が来るね。」
僕は言った。
「どんな子が来たって、私は全身で愛するよ! 」
彼女は言った。タイマーが鳴って、時間との勝負になり、ほかほかのパスタにミートソースがかけられる。
その丸いほっぺた、立ち仕事でふくらはぎの引き締まった足首、僕の世界一好きな風景のような人よ。
にっこり笑って缶を持つ、その顔のとなりに、まっ黒い夜空のピカピカの金の星が輝いている限り、僕たちの毎日はいつだって新しい。どんなことも共に解決できる。
***
吉本ばなな(ヨシモト バナナ)
1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で第16回泉鏡花文学賞、89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で第39回芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で第2回山本周五郎賞、95年『アムリタ』で第5回紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』で第10回ドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)、2022年『ミトンとふびん』で第58回谷崎潤一郎賞を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、イタリアで93年スカンノ賞、96年フェンディッシメ文学賞<Under35>、99年マスケラダルジェント賞、2011年カプリ賞を受賞している。近著に『下町サイキック』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
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