母が他界して一年と半年が過ぎた。

急に一人暮らしになった父が心配で、当初は東京のアパートと実家の間を新幹線で往復していたけれど、ここ最近はだいたいメールでやり取りしている。交通費が馬鹿にならないし、わたしだってそれなりに仕事が忙しい。幸いにも(あるいは不幸にも)独身で恋人もいないのでまだ時間は自由なほうではあるけれど、それでも普通に生きているだけで疲れはたまる。休日にベッドから出たくなくなってしまうのは仕方あるまい。

若さっていうのはすごいもんだよな、と、タオルケットにくるまりつつ思う。誰でも平等に持っていたのに、誰でも平等になくしていく。諸行無常。天気がいいから本当は布団を外に干したいけれど、そうするともちろん布団でだらだらすることができなくなる。これもまた諸行無常だ。

などとどうでもいいことを考えている土曜日の昼下がり、父からメールが一件届いた。「猫を飼おうと思う」とそのメールには書いてあった。

猫か。

わたしはすぐに「それはいいと思うよ」と返信した。ついでに実家の近くで活動している犬猫譲渡会を検索し、アドレスを添付する。

父は寂しいんだな、と思う。

当たり前だ。突然一人暮らしになったのだ。十年以上東京の狭いアパートで暮らしているわたしだって、ときどき孤独にさいなまれ呆然とする。何十年も一緒に暮らした人がいなくなったらきっと、寂寥たる夜の荒野に放り出された気分になる。かたわらに暖かく柔らかな生き物がいてくれたら。そう思ってしまうのも無理はない。

わたしはそれから、犬猫の保護施設や良さそうな動物病院、最新猫グッズ情報まで集めてエクセルにまとめ、父に送った。一人暮らし歴十年以上になるわたしは、孤独との向き合い方だってそれなりに上手いのだ。

ーーー

しかしそれから何週間たっても、父からの「猫を飼いはじめた」という連絡が来ない。父の日におもちゃの猫じゃらしを送ってみたが、それにすらとくに芳しい反応はない。「いつ猫を飼うの」とメールを送ってみるが、返ってくるのは「まあ、そのうち」などという煮え切らない返事ばかりだ。この分では、わたしの送ったエクセルにも目を通していないに違いない。

でもまあしかし、生き物を飼うのは一大事だ。慎重になるのは良いことだろう。

などと考えていたら、後輩の長尾が、

「それ、違うんじゃないですか」

と、突然言った。会社で、昼ごはんの鮭のおにぎりの海苔が上手く巻けずに四苦八苦しているときだった。コンビニおにぎりの包装フィルムは随分進化したけれど、それでもときどき失敗してしまう。

「違うとは?」

と、わたしはおにぎりに90%集中し、もう10%の意識で尋ねた。

わたしこの間別れたじゃないですか彼氏と、と長尾は言った。いやきみの最近の恋愛事情は知らんよ、と思いつつ話の腰を折りたくないので聞き流す。

「それまで半同棲状態でずっと一緒にいたんですよね、彼と。なのに今、家では誰とも話ができないんです」

それで? と先をうながすと、長尾はまだ分からないのかというふうに唇を尖らせる。

「だから、誰かと喋りたいんですよ人間は。話して、聞いてもらって、自分も聞く。そういうのが必要なんです」

「それと猫とどう関係があるの」

長尾は深いため息をつき、お茶取ってきます、と給湯室のほうへ向かう。わたしは長尾の背中をぼんやり眺める。おにぎりの海苔は結局上手く巻けなかった。指についた米粒をぺろりと舐めたら、母の作るおにぎりの味を一瞬だけ思い出した。

ーーー

帰り道の山手線で、携帯で猫動画を見る。

四角い小さな画面の中、猫はなぜだか自分のしっぽを追いかけ、ぐるぐるとその場で回転していた。可愛いなあ、と誰にともなく声が出て、そのときようやく気づいた。父は、猫を飼いたいだけじゃなく、わたしと猫の話がしたいのだということに。

次の駅で電車を降りた。最終の新幹線まで時間がない。足が速まる。

駅前の本屋に一瞬だけ立ち寄って、Visaのタッチ決済で「猫の飼い方」の本を買った。スムーズに素早く購入できたので、乗り換えに成功してほっとする。

一秒でも早く父のもとへ行きたかった。

帰ったら父とたくさん話そう、急ぎ足でそう考える。猫の話や、母の話、それから父とわたしの話を。猫を飼うのはそのあとでいいかもしれないな、とわたしは思った。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

***
狗飼恭子さん
狗飼 恭子
1974年埼玉県生まれ。92年に第一回TOKYO FM「LOVE STATION」ショート・ストーリー・グランプリにて佳作受賞。高校在学中より雑誌等に作品を発表。
95年に小説第一作『冷蔵庫を壊す』を刊行。以後、小説・脚本・エッセイ等、多方面において活動の場を広げる。これまでに『ストロベリーショートケイクス』『百瀬、こっちをむいて。』『風の電話』などの数々の脚本を手掛け、主な著書は『遠くでずっとそばにいる』『一緒に絶望いたしましょうか』(幻冬舎)など多数。幻冬舎pulsにて、エッセイ「愛の病」を連載中。
twitter @kyokoinukai

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