燃えろ火の玉、必殺、必殺

突然だが、私は「恋」をしたがる既婚男性が大嫌いである。最大限の恩情をもってここでは名前と所属企業名を伏せておくが、昔ある妻子持ちの知人に呼び出され、「岡田さん、最近ちゃんと恋してる? 僕はね、しちゃってるんですよ……!」から始まる、職場の部下への「純愛」語りを聞かされたことがある。一応は得意先の人間なので「わぁ、最低ですね! 社会的に抹殺したいですぅ~!」とニコニコしながら耳を傾けたのだが、内心、卓上のウィスキーと揺らめくキャンドルの炎を薙ぎ倒して股間をフランベしてやろうかと思っていた。何が「純愛」だ。燃すぞ。

とくに許せなかったのは、某大手企業勤務のこの男性がSNS上では「愛妻家」を演じていたためだった。いや、演じるというより、彼にとって「愛妻」と「婚外恋愛」とは呼吸するように両立可能なのであると、その晩ようやく知った。「家内はとてもよくやってくれている。子供もすくすく育っている。だけど今の僕には、家庭の平穏とは別の情熱、ときめきが必要なんだよ……」うん、ときめきっていうか、どう見ても性欲です、本当にありがとうございました。燃すぞ。

私は「恋愛」と「結婚」をまったく別のものと考えているので、それらを混同した上で、誰か一人と「結婚」しているけれど別の人と「恋愛」もしたいのだ、と主張する人々の言っていることが、ちょっと理解できない。ひょっとしていつかは理解できるようになるのかもしれないが、今のところは理解していない。

この国における「結婚」は一夫多妻制でも一妻多夫制でもない。夫婦は一対一の平等な関係であり、重婚は禁止されている。また、配偶者のある者が自由な意思に基づいて他の者と性的関係を持つ、いわゆる不貞行為は、貞操義務に違反する行為である。それを承知の上で「恋愛」がしたいという既婚者は、「だって」も「でも」もなく、まず先に結婚を解消して自由の身になってしまえばいいのに、と思う。人間以外の動物は結婚しない。お好きに大自然へ還ればよろしい。

この恋愛至上主義からの卒業

婚姻届を出した区役所からの帰り道、私は「これでもう契約満了まで、よその男と『恋愛』しなくて済むのだ! これからはただ夫婦愛のみを育めばよく、恋してるとか好きだとかに一喜一憂しなくて済むのだ!」という開放感にしみじみ浸っていた。うっとりロマンチックな表情を浮かべる夫のオットー氏(仮名)の横で、「いやー、結婚ってスカッとするね! せいせいするわ!」と祝杯を重ねていた。

今まで「恋愛」の出来不出来にさんざん苦しめられてきたけれど、「結婚」は幸福と平穏だけを授けてくれる。やっぱり結婚は素晴らしい、みずからの自由を法的拘束力へ縛られにかかってもお釣りが出るほど、いいこと尽くめだ。少なくとも今はそう認識している私にとって、結婚を結婚のまま留め置きながら、ハラハラとスリルを楽しむ「婚外恋愛」の魅力を説く人々の言葉は、胸に響かないのだった。

結婚したのは「仕方なく」で、妻や子と別れられないのも「仕方なく」、といって君との関係を終わらせることだって今更もうできないのは「仕方ない」。制御不能を言い訳に義務を怠っているだけなのに、どうして恋に恋する彼らは、恋しない我々よりも優位に立っているかのような物言いを平気でするのだろう? どうしてあんなに偉そうに「恋したい気持ちは止められないでしょ……」「君はまだ、本物の恋を知らないんだよ……」と中学二年生が聴くJ-POPみたいなことを謳えるのだろう? あなたがたにとって「恋」ってどんだけすごいことなの?

フランベしたくなる手をぐっと鎮めながら、きっと彼ら彼女らの「結婚」と私がした「結婚」とは別物なのだ、と思うほかない。「仕方なく」結婚せざるを得なかった、それはそれは大変な、想像を絶するご事情があったのだろう。私は悪くない、ただ現状を打開する能力が低いだけなのだ、というご主張なのだろう。だったらもう少し謙虚な態度でいてもよいと思うけど。

突然、メガネのごとく

さておき、世に厳然とある事実として「愛妻家」は独身女性にモテる。どこで統計を取ったわけでもないが、「貞淑な人妻」に燃える独身男性も「愛妻家のよろめき」に萌える独身女性も多いし、数を比べたらおそらく、後者が優るのではなかろうか。かくいう私もたとえば『となりのトトロ』の草壁タツオのような、二次元の愛妻家キャラには否応なくグッとくる。

女性から見て「愛妻家」が萌えるのは、「絶対に壊せない、守るべき家庭がある」からだ。彼らはどんな戦いにおいても攻撃一辺倒ではいられない。時に絶好の奇襲タイミングを逃してまでいそいそ防御線を張るその及び腰は「付け入る隙」や「弱点」のようにも思え、見る者の嗜虐心をそそる。失うものなど何もない(と自分では思っている)裸一貫、血気盛んな女戦士の目には、格好の獲物のようにも映るのだろう。

これは私自身の「メガネ男子」萌えから連想したことだ。古来、メガネ男子は理性と知能と博識の象徴、一方で、女の細腕で掴み掛かっても視力矯正器具さえ叩き割れば簡単に自由を奪える、モヤシの象徴でもある。分厚いレンズは、外界から身を守るための強固な防御壁。けれど他ならぬその存在が、肉体的欠陥を人前に晒し、生物的弱点を強調する。大事なところを覆って隠すその様に、嗜虐心と庇護欲とがかきたてられる。襲いかかってめちゃくちゃにしてのち優しく頭を撫でてやりたくなる。「愛妻家のお父さん」のキャラクターデザインに眼鏡が多用されるのも、無関係とは思えない。

洋の東西、次元の二三を問わず、メガネ男子は誰でも素敵に思えてしまう私のように、二次元と三次元の区別がつかず、ついフラフラと生身の愛妻家へ突撃してしまう独身女戦士も少なくない。気持ちはわかる、わかるからこそ、やめておけ、と申し上げたい。ひとたび眼鏡を叩き割ってしまえば、メガネ男子はただの弱視男子となる。あなたがたが襲いかかった途端、貞淑な人妻はただの人妻、愛妻家はただの妻帯者となる。遠くからじっくりと愛でつつ、頑なに外そうとしないレンズの下を妄想するほうが、萌えの持続可能性も高まるというものである。

おやつの燔祭

「世の中にメガネ男子ブームが到来したのに、メガネ男子である俺がモテないのは、どう考えてもお前らが悪い」とのたまう男子がいる。笑止千万。我々がメガネをちやほやするのは、いっさいの女モテを意識せず、つねに実験・観察・研究対象のみを注視しているからだ。こちらを振り向いてくれないからこそ、萌えるのである。女子の反応ばかり窺う輩はメガネ男子の風上にも置けない。同様に「愛妻家はモテる」からといって、モテるために愛妻家アピールする男たちは、愛妻家の風上にも置けない。結婚生活を重んじる人々は大声を上げず、静かに、穏やかに暮らしている。SNSに余計なことを書いて若い女性の「いいね!」を獲得しようなどとは、夢にも思わないものである。燃すぞ?

先日、とある科学者がこんなふうに言っていた。
「僕は非科学的なものをいっさい信じないのですが、結婚して初めて、『目に見えないものを畏れ敬う』人々の気持ちを理解することができました。神の怒りを鎮めるために祭壇にお供え物をするなんて、単なる迷信だと思っていたんです……。あれは、人類が逆らうことのできない大自然と対峙しながら生き延びるために編み出した、偉大な知恵なのですね。最近は僕も、家で何か災いが起こるたび、取るものとりあえず、お花とお菓子を買って帰っては、祭壇に捧げています」

どんなお菓子だと早く嵐が鎮まるか、実験を重ねてだんだんわかってきましたよ、と微笑む彼は残念ながらメガネ男子ではないが、環境に適応して高度な知能を発達させていった小動物のよう。適者生存の法則に従い、自称愛妻家たちの死滅後も彼らだけが生き残り、愛妻家の種を保存していただきたい。Facebookを眺めてもまったく窺い知れない大自然の脅威と見えざる神の存在にヤキモキしながら、今後とも遠くからじっくり愛でていたいと思う。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海