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ドラマにありがちなシチュエーション、バラエティで一瞬だけ静まる瞬間、
わずかに取り乱すニュースキャスター……テレビが繰り広げるワンシーン。
敢えて人名も番組名も出さず、ある一瞬だけにフォーカスする異色のテレビ論。
その視点からは、仕事でも人生の様々なシーンでも役立つ(かもしれない)
「ものの見方」が見えてくる。
ライター・武田砂鉄さんが
執拗にワンシーンを追い求める連載です。
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「そこに山があるから」的な態度
日頃、走る必然性が3つか4つくらい同時に揃わないと走らない、そう心に決めている。電車に遅れそう、赤信号に変わりそう、くらいでは走らない。だってそれは必然性がそれぞれ1つしかないから。赤信号に変わりそうだし、小雨はパラついているし、電車に遅れそうな場合は、走る。日本を代表する小説家が「走ることについて語るときに僕の語ること」という回りくどいタイトルの本を記していたが、なぜ走ろうと思ったかという地点から話し合いたい。しかし、あちらはそうこうしているうちにどこかへ向かって走り始めるから、とぼとぼ歩いているこちらは、ただただ置いてけぼりにされる。
「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから」と答えた登山家の名言は、「そこに山があるから」と言葉を変えてあちこちで投じられているが、この手の返答は、相手が山でなければ、なかなか理不尽な応対となる。「なぜ殴るのか」「そこに顔があるから」。「なぜファミレスで悩みを打ち明けているのに相談に乗ってくれないのか」「そこにパフェがあるから」。山という相手が日頃向き合う相手ではないからこそ、「そこに山があるから」との宣言がどこかインテリジェンスに響くのである。同じようなアプローチで「風がオレを呼んでいる」や「夕陽に向かって走れ!」とあちこちで耳にしてきたわけだが、普段は使われない響きだからこそドラマチックに響くのであって、日頃使われる「部長がオレを呼んでいる」はおそらく説教だし、「田中に向かって走れ!」と言われても「なんで?」と問い返すことになる。
走る人と走らない人は分かり合えない
私のスマートフォンには万歩計が内蔵されており、初期設定で1日の目標歩数が10,000歩に設定されたままだ。10,000歩を上回るとトロフィーのアイコンと「目標達成しました! おめでとう!」というメッセージが出るのだが、家を一歩も出ない日すら少なくない職務ゆえに、トロフィーで褒めてもらえる日は限りなく少ない。もうすぐ今日も終わりだという時間帯にまだ285歩だったりすることもしばしば。目標歩数の設定を変えるべきではないかと誰からともなく促されるが、そうまでしてトロフィーを授与されたくはない。体調管理のためにランニングを欠かしませんという人は、この数値など余裕でクリアするのだろうが、再三再四申し上げるように、こちらは走るというハードルをとても高く設けているのである。
誰も答えを出してくれなさそうだから、ネット検索に「なぜ走るのですか」と打ち込み、模範回答を掘り起こしてみる。新聞社のサイトがヒットし、その理由が箇条書きになっている。「ストレス発散」「目標達成することで充実感を得られる」「健康維持」「ゴールすることで精神的な芯の強さが増す」「大会に出ると沿道の人からの応援が励み&パワーがもらえる」。とても端的な答えである。「そこに山があるから」方面で走ることを語る人は、こういう箇条書きを嫌がるのだろう。「応援が励み&パワーがもらえる」という答えなど素直で分かりやすいが、走ることをもっと感覚的に嗜みたい人は不満を漏らすはずだ。
24時間続く番組を覆うハッピーなオーラ
夏の風物詩となっている晩から晩まで24時間やっている番組では、毎年必ず誰かがマラソンを走ることになる。とりわけ近年はランナーによって走行距離が異なるが、100kmを通例として続いてきた。後ほどじっくり考察するが、必ず放送時間ギリギリにゴールし、この人は遠く離れた戦地から数十年振りに帰ってきたのだろうかと思わせるほどの涙で出迎えられる。桜吹雪のサライの空へ、いつか帰るその時まで、夢は捨てないのである。この番組が好きになれないのは、どうやったら感動してもらえるだろうかと考えた挙句、ハンデを抱える人にすがりながら、力づくで感動を引っ張り出すからである。こんな人達にこんなことをしてもらえば人は涙を流すだろうという狙いを最大化する施策が繰り返される。そんななか、ほぼ唯一、何がしかのハンデにすがらない企画がこのマラソン企画ということになる。
彼らや番組は、走る理由について言及し続ける。「子供達にこんな僕でもやればできるんだって伝えたい」「自分はこれまで何か一つのことを達成したことがなかった。このマラソンを完走して、これをやりきったんだって胸を張りたい」。目標を設定してクリアしていくのは、あらゆるタスクにおける基本的なアプローチだが、100km走るという目標設定は確かに壮大だ。この番組は放送前のドキュメントなどで、そのランナーがいかにこれまで走ってこなかったかを知らせる。「これまで最大の距離って……?」と問い、「いやー、高校のマラソン大会で走った10kmですね」という解答を引き出す。走ることへの疑いが強いこちらは、一連の流れを見やりながら、「で、なんで走んの?」とまだまだ繰り返すのだが、その申し出は結局、番組を覆うハッピーなオーラに塞ぎ込まれ、ジメジメと粗を探すしかなくなってしまう。
「じゃあお前が100km走ってみろ鬼畜」にどう向き合うか
ジメジメ粗探しの真骨頂「なぜ、毎年、放送時間終了直前にゴールするのか」という命題に対して、「番組側がそういう風に仕込んでいるからに決まっているじゃん」と正しい答えをすぐに出してはいけない。そんな答えを隅っこに排する力くらい、あのハッピーなオーラは余裕で持ち得ているからだ。じっくりじわじわ考察しなければならない。
距離やスタート時間に違いはあるが、24時間で100km走るのは、誰にとっても前代未聞であり、走りきることが容易であるはずがない。その前提のもと、この番組を嫌う面々が誰しも頭で繰り返してしまう数式を済ませておく。100kmを24時間で走りきるにはどれくらいのペース配分が必要なのかをいやらしくも算出するのである。「100㎞=100,000m」を「24時間=1,440分」で割る、その解は1分で約70m歩けばゴールできる、というもの。大人が1分に歩く距離として、不動産広告の「徒歩◯分」に使われる基準は80mとされている。しかし、実際にはあれに若干盛らないと家に辿り着かないことから考えても、実際は70m程度とするのが妥当である。
そう、つまり、大人がいつものペースで歩き続ければ24時間で100km歩ける計算になる。しかし、そんなことを申し出ようものならば、じゃあお前が100km走ってみろ鬼畜、と凄まれることになる。凄まれたからといって沈黙してはいけない。確かにずっと歩くのなんて常軌を逸している。ましてや走りながら向かうのだから体には相当な負担がかかる。こちらは「達成するのなんて簡単さ」と言いたいわけではない。休憩地点で見せる苦悩の表情に向かって、「ヤラセだろ」と叫ぶような真似もしない。
「感動を調節する気分はどうだい」とは問いたい
ただし、このように冷静に考えておく必要はあるだろう。ひたすら歩き続ければ100kmに至るわけだから、ひとまず勢い良く走り出した状態からどこかで引き算しないと、彼は夕方には武道館にたどり着いてしまう計算になる。走るペースにもよるが、低い数値を使ったとしても、人は1分間の軽いジョギングで100mは走るという。このペースで3時間走ったとすると、徒歩とジョギングの差として「30m×180分=5.4㎞」ほど予定より早く進んでしまう。どのランナーも最初は勢い良く飛び出していく。単純計算できるものではないが、3時間ジョギングして残りを歩いたとすると、当初の予定より1時間前後は早く到着してしまうことになる。休憩所でマッサージを受けたり、信号待ちに時間をとられたり、時間のロスはあらゆる形で生じるからあくまでも参考値だが、この単純計算がまったくの無意味とも思えない。
回りくどい言い方を続けてしまったが、ようやく核心をつくと、あのマラソンは誰かの時間調整によって、ちょうどいいタイミングでゴールに到達している。それを走者に委ねることなどできないから、時間調整を担当している人が別にいるわけだ。このままだと遅れてしまいそうなタイミングにはペースをあげるように指示しなければいけないが、おおよそは「遅らせる」役務になるのだろう。この番組やマラソンを「ヤラセ」「偽善」と声高に糾弾するのはハードルが低すぎる。もっと細かく突つきたい。マラソンのペースを調整する誰かに向かって、「これだけハッピーなオーラに包まれている番組を維持させるために、もうちょっと早くゴールできるのにそれを遅らせている貴方の本心を問いたい」と投げかけたいのである。善を維持するために、善を調整し最後まで持ち運ぶ人達。「負けないで」を歌い、いよいよゴール、そして「サライ」、そのタイミングで武道館へ向かわなければならないのである。このタイミングをはかる誰かは、番組の根幹を握っていると言っても過言ではない。だからこそ、その誰かに問いたい。感動を調節する気分はどうだい、と。
自分がとにかく走らない人間だから、ずっと走り続ける、という行為に対して、少しも心が揺さぶられないのである。筋トレをしない人間は、「ほら、ようやくここの筋肉がついてきて……」と筋トレの成果を見せてくる人に「すごーい」と褒め言葉を投げた後に、ひそひそバカにし始める。しかし、走る、という行為については、「すごーい」だけに留める傾向がある。走らない人まで、走ることを馬鹿にしてはいけないと思い込まされているのである。このこととあの番組が24時間走り続けていることは無関係ではないと思う。マラソン完走による度重なる涙が放任されている理由にもなる。とにかく私は、その時間調整を担当している人に向き合って、ものすごく雑だけど、「どう?」と問いたいのである。
<著者プロフィール>
武田砂鉄
ライター/編集。1982年生まれ。2014年秋、出版社勤務を経てフリーへ。「CINRA.NET」「cakes」「Yahoo!ニュース個人」「beatleg」「TRASH-UP!!」「LITERA」で連載を持ち、雑誌「AERA」「SPA!」「週刊金曜日」「beatleg」「STRANGE DAYS」等で執筆中。近著に『紋切型社会 言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社)がある。
イラスト: 川崎タカオ