自治体が運営する地下鉄は「●●市営地下鉄」というように自治体名を付けて表記される。民間企業が運営する私鉄と区別するため「公営交通」に分類される。アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンの名言「人民の人民による人民のための政治」になぞらえるなら、「自治体の自治体による自治体住民のための交通機関」といえる。
公営交通の営業範囲は自治体の管轄内が基本とされる。札幌市営地下鉄は札幌市内を走るし、仙台市や神戸市、福岡市の地下鉄も、現在はそれぞれの市の範囲内で営業している。
都営地下鉄(東京都交通局が運営)の場合はどうか。都営浅草線は東京都台東区から東京都大田区まで。都営大江戸線は東京23区内をぐるりと回る。都営三田線はかなり郊外まで足を伸ばしているけれども、終点の西高島平駅は東京都板橋区にある。これら3路線はちゃんと都内に事業エリアが収まっている。
ところが、都営新宿線は終点の本八幡駅のみ千葉県市川市にある。東京都は千葉県民のために線路を延ばしたというのか。千葉県は東京都交通局の越境をなぜ許したのか。
もちろん、都営新宿線本八幡駅の設置については東京都と千葉県、市川市も納得している。東京都としては、本八幡駅の手前の篠崎駅を終点にするよりも、国鉄(現在のJR東日本)の総武本線本八幡駅に接続したほうが乗客を増やせる。千葉県や市川市としても、都心へ直通する鉄道があれば市民にとって便利だし、便利であれば人口増加も期待できた。
それ以前から総武本線は大混雑しており、国鉄は総武本線を複々線化。営団地下鉄(現・東京メトロ)は西船橋駅で分岐する東西線を建設した。それでも将来は混雑が予想されるため、もうひとつの都心方面ルートが必要だった。なぜ将来の混雑が予想されたかというと、千葉ニュータウンの開発計画があり、千葉ニュータウンと本八幡駅を結ぶ「千葉県営鉄道」の計画があったからだ。都営新宿線は本八幡駅を境界として「千葉県営鉄道」と相互直通運転を実施し、千葉ニュータウンと東京都心を結ぶ計画だった。
しかし千葉ニュータウンの計画は停滞。先に北総開発鉄道(現・北総鉄道)と住宅・都市整備公団線(現・千葉ニュータウン鉄道)が開通したけれど、千葉ニュータウンの人口が増えず、ついに千葉県営鉄道計画も取りやめとなってしまう。せっかく本八幡駅にたどり着いた都営新宿線だけど、もはやここまで。ただし、前述の通り総武本線や地下鉄東西線を補完するルートとして役目を果たしている。
じつは他の公営交通事業にも、自治体の境界を越えて運行される路線(他社線への直通運転は除く)がある。地下鉄に関しては隣接する自治体にまたがる路線が意外と多い。横浜市営地下鉄ブルーラインは終点の湘南台駅だけ藤沢市にあるし、川崎市の新百合ヶ丘駅まで延伸する計画もある。
名古屋市営地下鉄鶴舞線は赤池駅だけ日進市にあり、京都市営地下鉄東西線は六地蔵駅だけ宇治市にある。六地蔵駅はJR・地下鉄の駅と京阪宇治線の駅が離れており、京阪宇治線の駅は京都市にあるけれど、JR・地下鉄の駅は宇治市だ。今年から民営化され「Osaka Metro」となった旧大阪市営地下鉄の場合、吹田市、堺市、守口市、八尾市、東大阪市、門真市と周辺の自治体まで足を伸ばす路線が多かった。
ただし、他の公営地下鉄は境界を越えたとしても同一の道府県内に収まっている。都営新宿線の場合は東京都からもはみ出し、ひと駅だけ県境を越えている。深い事情があるものの、大胆な越境といえそうだ。