会社勤めをしていると、化粧品を買いに行けない、と、桐子はよく思っていた。桐子は小さなお菓子のメーカーに勤めていた。本来、18時までで終業のはずだったが、新卒で入って35歳まで働き続けた結果、桐子はそれなりに「先輩」の立場になってしまい、後輩では最終判断ができない仕事が残っていたりすると、一緒に残るはめになるのだった。
進めていた案件が一息ついて、桐子はずっと切らしていた化粧品を買いに、帰りにデパートに寄った。ひと仕事終えた解放感のせいもあって、デパートがなんだかいつも以上にきらきらした素敵な場所に見えた。いつも使っている乳液を買ったあとも外に出るのがもったいなくて、買う予定はなかったけれど、ファンデーションかリップグロスでも新調しようかな、と売り場をゆっくりと見て回ってみた。
ふと、どこか遠い国を思わせるような、不思議な香りがした。香りのする方に目を向けると、小さな香水の売り場があった。若い女性の店員が多い化粧品売り場で、その女性だけは50代ぐらいに見えた。彼女は、桐子と目が合うと、さりげなく微笑んだ。
「今、ここの……ここの香りは何の香りですか?」
桐子の明らかに香水売り場に慣れていない問いに、その女性は動じることなく、ゆったりした仕草で並んでいる香水瓶の中からひとつを選び、差し出した。
「こちらの香りになります。ウッディな香りが基調になっていますが、スパイスや革の香りも入っていて、個性的な香りです。メンズですが、女性がつけられてもとても合いますよ」
そのボトルを手に取りながら、桐子の頭には、一人の男の顔が浮かんでいた。
仕事でときどき会う、社外のデザイナーの内藤は、桐子よりも5つ年下だったが、とにかく仕事が出来て、年上の桐子よりも存在感があった。デザイナーとして譲れないところは絶対に譲らない姿勢も、桐子は会社側としては困ったが、個人的には尊敬していた。才能を買われて、桐子の会社の案件なんかよりもずっと大きな仕事をいくつも抱えているのに、絶対に手を抜かず、細かいところまで考え抜いてくれる誠実さも信頼できた。
内藤への敬意だと思っていたものが恋愛感情なのだ、と気づいた頃には、出会ってからもう三年が経っていた。桐子は、自分は本当に、恋愛にうといのだなぁ、と思った。
内藤は、いつもTシャツ姿のラフな服装をしていた。忙しく、事務所に泊まることも多いようだった。おそらく泊まり込んだ翌日であろう日に、少しだけ感じる内藤の体臭を好ましく感じた。あの香りと、この香水の香りは、よく合うように思えた。
内藤は、香水なんかつけるだろうか。とてもつけそうなタイプには見えないけれど、自由な発想でときどき予想外のことをする内藤ならば、もしかすると気に入ればあっさりつけるようになるのかもしれない、とも思えた。それに、内藤ならばこの香りの繊細さや奥深さを理解してくれる気がした。
桐子は、その香水を買った。「贈り物ですか?」と訊かれ、「はい」と答えた。淡いグリーンの紙に、金色の文字がプリントされた紙袋に、リボンを結んで手渡されたそれを、桐子は始まりの予感のように大切に持って帰った。
渡す機会や口実は、いくらでもあるように思えた。いつもお世話になっているから、とか、お誕生日だから、とか、ちょっと変わった差し入れなんですけど、とか。恋愛は苦手でも、そういう社交辞令的な言葉はいくらでも出てくる。
けれど、家に帰って、棚の上に大事にその紙袋を置いてみると、桐子は急に恥ずかしくなった。綺麗にラッピングされた香水。それは、「あなたが欲しい」と、「あなたを私のものにしたい」と、はっきり主張しているように見えた。その願いは分不相応すぎて、棚の上の紙袋はとても遠かった。
会社に内藤の結婚パーティーへの招待が届いたのは、香水を買ってから一ヶ月後だった。立場上、欠席するわけにもいかない。午前中にヘアサロンで髪を結い上げてもらい、控えめな黒いサテンのドレスに着替えた。渡せるとしたら今日が最後の機会だろう、と思うと、あの紙袋を手に取っていた。
結婚パーティーは盛況だった。内藤の隣には、20代ぐらいの、若くてかわいらしく、そして賢そうな、内藤の内面まで深く理解していそうな、控えめな女性が座っていた。桐子は、仕事上身につけた笑顔と社交的な会話で、そつなく振る舞った。心と表情が、こんなにばらばらに動くものなのか、と自分に感心した。
パーティーが終わり、最後に新郎新婦に挨拶して帰るとき、桐子は紙袋を持っているのに渡さないのは不自然だ、と思い、人ごみに紛れて、そっとホールから離れた側にあるエレベーターに乗った。みんな、二次会の会場へ向かうはずだった。
桐子は最上階のボタンを押した。
最上階には、光がふんだんに差し込む見晴らしの良いラウンジがあった。日常から切り離されたような光景が、桐子の中のさまざまな感情を断ち切ってくれるようだった。
「いらっしゃいませ」
訓練の行き届いた、どんな無理を言っても叶えてくれそうなウエイターに迎えられ、桐子はその日、初めて自分の言葉を発した。
「窓際の席をお願いします。あと、先に手を洗ってきたいので、上着だけ席に置いておいてもらえませんか」
こんな場所に来たのは初めてなのに、驚くほどすらすらと言葉が出て来た。
「かしこまりました。では上着をお預かりします」
桐子はさも当然のように上着を渡し、ウエイターの案内でレストルームへ歩き出した。 黒を基調にした、誰もいない落ち着いたレストルームに入ると、桐子はドレッサーの前に座った。こういうところには、ドレッサーまであるんだな、と冷静に思いながら、口を押さえて泣いた。
鏡を見ると、目が涙で輝いている自分が見えた。ファンデーションがよれているが、泣いて体温が上がったのか、汗で肌が艶っぽく見えた。
鏡の前に置いた、薄緑の紙袋のリボンを解いた。箱の中から香水瓶を取り出す。手の中のそれは、決然と自分を主張しているように見えた。「あなたが欲しい」「あなたを私のものにしたい」と。桐子は、瓶のふたを取り、手首に吹き付けた。紙袋と箱をごみ箱に入れ、香水瓶をバッグに入れた。
席に戻ると、さっきのウエイターがメニューを持ってきた。
「シャンパンをグラスで。もしあれば、ラズベリーを入れてください」
そんなわがままを、桐子は初めて言った。メニューにないものを注文したことなどなかった。
「かしこまりました」
ウエイターは当然のようにそれを受け入れ、趣味の良い注文を聞いた、というように少し微笑んだ。
あの香りを纏っただけで、桐子は自分が別人になったかのように感じていた。甘い香りでも、無難な香りでもない、個性の強い香りを、自分が纏っている。
次に誰かを好きになったら、「あなたが欲しい」と、ちゃんと言おう。どんなに手が震えても、かっこ悪くても、分不相応でも、言おう。桐子は香水の香りと、シャンパンとラズベリーの香りが混ざったグラスに、誓いの杯のように口をつけた。
<著者プロフィール>
雨宮まみ
ライター。いわゆる男性向けエロ本の編集を経て、フリーのライターに。著書に「ちょっと普通じゃない曲がりくねった女道」を書いた自伝エッセイ『女子をこじらせて』、対談集『だって、女子だもん!!』(ともにポット出版)がある。恋愛や女であることと素直に向き合えない「女子の自意識」をテーマに『音楽と人』『SPRiNG』『宝島』などで連載中。マイナビニュースでの連載を書籍化した『ずっと独身でいるつもり?』(KKベストセラーズ)を昨年上梓。最新刊は『女の子よ銃を取れ』(平凡社)。
イラスト: 安福望