損得の勘定、感情の損得

ウェブ上ではなぜだか、非モテのほうがモテる。何とも不思議な語義矛盾だが、事実である。日本語圏ウェブはモテる人間に厳しい。独身の非モテとして発言すると周囲から何かとちやほやしてもらえる一方で、恋人がいるというだけで見ず知らずの他人から「ばくはつしろ」などという言葉を投げつけられる。

自分は弱者だと主張するモテない人間のほうが、その場においては絶対強者のように振る舞うことも多々ある。ただモテないというだけで、他者に対してどんな乱暴な言動をぶつけても許されると思い込んでいる非モテも多い。ルサンチマンが渦巻いて場全体の空気が濁り、常日頃モテまくっているわけでもないが生まれついての非モテというわけでもない、中間層の振る舞いまでをも蝕んでゆく。モテない側に与するほうが何かと居心地がよい。みんな非モテのフリをする。そしてバレては糾弾される。

ウェブ上ではあまり大きく「結婚した」と言わないほうがよいのではないかと思って、一年近くも伏せていた。友人限定公開のFacebookでは事後報告したし、紙媒体ではエッセイの題材にもしたけれど、ブログやTwitterに書くのはやめておこうと考えていた。非モテを名乗る読み手たちから、どんな掌返しを受けるかわからないからだ。誰とも知れない人々からの「同じ非モテだと思ってたのに、結婚なんかしやがって」という呪詛が恐ろしかった。応援していたアイドルに彼氏がいたと発覚するやいなや、大事にしていたCDやDVDを割り、今まで注ぎ込んできたカネを返せと脅す、そんな人々のイメージに近い。

ところが、自分より少しでもモテている非モテを見つけては「あいつは裏切り者だ!」と吊るし上げていた連中は、『新婚日記』の開始とともにするりと私から離れていった。「既婚とバレたら、自分が何かを失い、損をするのではないか」と気に病んでいたのだが、では、黙っておいて誰にどんな「得」があるのか考えてみると、それこそ何もない。むしろ、既婚と知れるとストーカーじみた粘着行為を繰り返すフォロワーが少し減ってスッキリした。清純派アイドルでもないくせに、不特定多数からの謂れのないモテに余計な気を揉むことはないのだった。単なる自意識過剰である。

不特定多数、とくに異性に対して、自分がどれだけ魅力的か、昨日より今日のほうが魅力的か、明日はもっと魅力的か。いつかどこかのゴールに辿り着きたいと思うなら、非モテは非モテなりに、少しでもモテ続けていなければならない。非モテとしてちやほやされているだけでも、まったくモテないよりはマシだ。そんな気持ちに、自分で意識する以上に囚われており、囚われているから、こじらせていたのだろう。配偶者を一人得て、初めて「束縛による解放感」のようなものを感じた。今後は浮気はできない代わり、もう一喜一憂もしなくて済む。語義矛盾だが事実である。

依存と支配と浸透圧

ところで夫のオットー氏(仮名)は、妻が不特定多数にモテることを大いに歓迎している、様子である。いつも連載読んでますよ、と声を掛けられては嬉しそうにクネクネしているし、家に引きこもってばかりいないで積極的に表へ出たほうがよい、と私を励ましてもくれる。自分のパートナーが人気者であることは喜ばしいことだと考えている、様子である。言われてみれば私だって、パートナーが自分以外の誰かにもちやほやされていたほうが、気分がよいと感じるタイプだ。

世の中にはそうでない男女も存在する。たとえば、夫を自分だけのものにするため、他の女性に奪われないようにと、わざと身なりに構わせず、手料理で肥え太らせ、冴えない風貌に仕立て上げる妻がいるのだそうだ。さすがに公言する人は少ないだろうが、そうした方向性へばかり愛を掘り下げているように見受けられるカップルは多い。あなたには私しかいないのよ。お前は俺でなきゃダメなんだ。服装や立ち居振る舞いについて指図されたり、遊びに出かけることを禁じられたり。

昔、何にでも「俺と○○○と、どっちが大事?」と訊いてくる恋人がいた。追っかけ対象のミュージシャンくらいならよいが、所属組織や仕事相手の名前まで出されることもあって、「そんなに○○○が大事なら、俺のことはどうでもいいんだね?」と脅してくるので辟易していた。内側へ内側へと閉じていく関係性。一つの喜びが二つに増えるどころか、二つの人間だったものが得体の知れない一つのかたまりに融け合ってしまうような息苦しさ。

それが恋愛感情から来る単なる「嫉妬」なのか、もう少し別の何かなのかは、今でもよくわからない。わからないから心惹かれる、という類いの事象ではない。わからないから、距離を置きたくなる。特定の誰か一人にモテすぎてしまうのは怖い、そんな気持ちがはたらいて、不特定多数の誰かに広く浅くモテている状態を保ちたかったのかもしれない。八方美人として全方位から薄くモテていれば、狭く深く愛されすぎずにすむ。自分と誰かとの浸透圧変化に乱されたりしない。

だからこそ、妻が不特定多数にモテている、というより、ネットで火の粉を振りまき華麗に炎上している状態をさえ「今日も大人気だねぇ!」と嬉々として受け入れているオットー氏には、少々面食らうところもある。面食らいつつも、有難い。この人と暮らしている限り、もうモテることやモテないこと、モテすぎたりモテなさすぎたりすることに思い悩むことはないだろう。亭主改造の余地は、多少はあるにせよ。

誰か一人と契約を交わすことで、その強固な結びつきによって、それ以外の世界との関係性もまた、凝り固まらずに開かれていく。この穏やかなパートナーシップこそ、私が恋愛に求めて叶わなかったものであり、するつもりじゃなかった結婚で手に入れた、最大の恩恵であると思う。

ペットを連れて街へ出る

2007年頃、ウェブ上で「媚びない女は一生独身ですか。」という質問が波紋を呼んだ。男に甘えられないから恋愛が上手くいかず、結婚もできる気がしない、という内容で、二十代独身当時の私は他人事とは思えなかった。この匿名の問いかけに対してコメントを書き連ねていたのは、大半が年嵩の既婚女性だ。質問者を慰めたり、励ましたり、ちょっと手厳しいアドバイスをしたり。そんな回答を読んでいるうちに私はだんだんイライラしてきて、自分のブログで「『甘える先』を確保してある人の慰めは、心に響かない!」と吠えた。非モテの言動は乱暴だ。

自分の放った言葉は、いずれ自分へと返ってくる。既婚者の語る、結婚してから得た結婚観が、独身者の情緒不安定を鎮めることはないと思っている。だから結婚後、ウェブ上では私生活の愚痴を言わないことに決めた。自分の中にとごっていく澱を、ゆっくりと時間をかけて浄化していく機関を、私は一つ手に入れた。同じフィルターを使って互いに濾過し合う関係性によって、白すぎる感情、黒すぎる感情、過剰すぎるものはすべて、よそへ撒き散らさずにいられるはずだ。本当は、独りでだって、そうできていたはずなのだ。

私がミュージカル俳優に入れあげていても、オットー氏は何も言わない。一緒に劇場へついてきたり、郵便受けのファンクラブ会報を届けてくれたり。そこに「嫉妬」はないのだろうか。表に出さないだけで、本当は何かを我慢しているのではないか。気になって訊いてみた返事がこれだ。 「嫉妬? しないよー。だって、君の待受画面が石川禅ちゃんの舞台写真なのは、ペットの犬とか猫とかの写真を飾ってあるのと同じでしょ?」

寛容な夫だと感激してよいものか、愛玩動物と一緒にするなと怒ればよいものか。もちろん私だって、オットー氏が黒木瞳やケリー・ギディッシュにいくら惚れ込んでいようとも何とも思わないのだが、ペットに喩えられてしまうとさすがに拍子抜けする。

誰もがみな、それぞれにケダモノのような暴れ狂う感情とともに暮らしていて、飼い馴らす術を模索しているのかもしれない。隣近所に迷惑をかけないよう、「ペット可」という条件の部屋を探して、夫婦二人で住むだけのことだ。狭いところに閉じ込めて鎖に繋ぐなんてかわいそう、という意見もあるかもしれないが、大家に隠れてこそこそ飼ったり、躾が足りず道行く人に噛み付いて襲ったりするようではいけない。もしも感情が迷子になったとき、一人より二人のほうが早くに見つけて保護しやすい、ということだってあるだろう。かわいがってくれる相手には、感情もよく懐く。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海