1978年(昭和53)から1981(昭和56)年にかけて、国鉄から旧型国電が次々と引退していきました。1978年3月以降、1980年1月にかけて、首都圏の青梅線、五日市線、南武線、横浜線、鶴見線から大量の72系が引退し、新性能化が完了(17m旧型国電の一部は残存)。首都圏での引退が一段落すると、新性能化の波はペースを上げて地方線区へ広がっていきました。
「さようならゲタ電号」運転のため編成替え中のひとコマ。クモハ43804(写真左)にクモハ43810(同右)と、めったに先頭に出ない車両が顔をそろえたが、この直後に両者は明暗を分けることになってしまう。大糸線、松本運転所北松本支所にて。1981年7月22日 |
1980年3月から1981年8月までの約1年半の間に、仙石線、福塩線、宇部線、小野田線、大糸線、身延線から、戦前型旧型国電や72系があっという間に引退していきました(小野田線本山支線の旧型国電は2003年まで残存)。残るは飯田線北部の伊那松島機関区に所属する戦前型や、可部線、富山港線の72系など数線区のみ、という状況になりました。
北アルプスの麓、安曇野を走る大糸線でも、1981年7月に「さようならゲタ電号」が運転され、戦前型旧型国電の中で唯一、スカイブルーに塗られた37両が全車引退。新製の115系電車へ置き換えられました。ちなみに「ゲタ電」とは、「下駄履きでも気楽に乗れる電車」とのこと。当初は国電を指す言葉でしたが、後に旧型国電を指す言葉として使われるようになりました。
この「さようならゲタ電号」が運転される5日前、筆者はある"リベンジ"を果たすべく、大糸線を再訪していました。その2カ月前の1981年5月、大糸線を初めて訪問し、スカイブルーの旧型国電を撮影しました。「ワサビ田と旧型国電」という、安曇野を走る大糸線らしいアングルを狙っていたものの、天候悪化のため断念(当連載第12回「春の安曇野を行くスカイブルーの旧型国電」参照)。その風景を撮りたい一心で、引退直前の再訪となったのです。
そして"リベンジ"は成功! ワサビ田と旧型国電を絡めた画が撮影できました。欲を言えば、もっと低い位置から列車を狙いたかったのですが、もちろんワサビ田に降りることはできませんでした。
久しぶりにホロ付きのゴツい顔を見せてくれたクモハ43810。この車両は1937(昭和12)年、京阪神の急行用流線型電車、クモハ52(通称「流電」)の増備車として製造されましたが、完全な流線型ではなく、「半流線型」となりました。
その理由は、現場からのクレームだったそうです。「流電」には貫通扉がなく、運用上・整備上不便だという声が現場から上がったため、前面の形状を変更。貫通扉を付けて半流線型となり、「半流」などの愛称で呼ばれました。
このクモハ43810が、まさか写真を撮った翌日に使命を終えることになるとは、この時点では予想もつきませんでした。
1981年7月22日、朝ラッシュの運用を終えたクモハ43810は、松本運転所北松本支所へ入区しました。そしてパンタグラフを降ろした途端、職員の動きが慌ただしくなり、入換えを行う様子が見て取れました。これが、同車両の44年にわたる活躍に終止符が打たれた瞬間でした。
やがて入換えが始まり、同形式の盟友クモハ43804が、無動力のクモハ43810を牽引し、支所の奥へ転線して切り離し。冒頭で紹介した、スカイブルーのクモハ43が並ぶカラー写真は、このとき撮ったものです。
その後、他の車両も転線させ、廃車用の4両編成を組成。これに控車となる2両をつなげて、6両で梓橋まで回送されました。到着後に廃車用の4両を切り離し、解体までしばらくの間、留置されました。
1981年7月26日、「さようならゲタ電号」が運転されました。1965年以降、大糸線で活躍した戦前型旧型国電は、これにて全車引退となったのです。
※写真は当時の許可を取って撮影されたものです
松尾かずと
1962年東京都生まれ。
1985年大学卒業後、映像関連の仕事に就き現在に至る。東急目蒲線(現在の目黒線)沿線で生まれ育つ。当時走っていた緑色の旧型電車に興味を持ったのが、鉄道趣味の始まり。その後、旧型つながりで、旧型国電や旧型電機を追う"撮り鉄"に。とくに73形が大好きで、南武線や鶴見線の撮影に足しげく通った