2009年10月、隣り合うふたつの国、トルコとアルメニアの国交が樹立した。国際列車も復活するという。そのニュースを知ったとき、彼の脳裏には広大なユーラシア大陸が広がった。ユーラシア大陸の最西端の駅から、ユーラシア大陸最東端の駅へ。約3カ月間にわたる壮大な汽車旅が始まった……。

日本では手配不可、とにかく西行きの列車に乗れ!

世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア大陸横断2万キロ』は、著者・下川裕治氏が実際に旅した日々を描いたノンフィクション。同行者はカメラマンの阿部稔哉氏、56歳の旅行作家と45歳のカメラマン。ひと回りも歳の差がある中年オヤジたちによる、さぞや面白おかしい弥次喜多道中かと思ったら、そうではなかった。

鉄道でユーラシア大陸を横断し、西をめざすも…(写真はイメージ)

なにしろ旅のスタートはロシア。いまは開かれているとはいえ、旧ソ連の一部だった国だ。不案内なキリル文字、薄暗い駅では身の置きどころがなく、列車は時間通りに走らない。不安な出発にして、最後まで不安と戦う旅だ。

下川氏はアジアの旅を紹介する作品が多いようで、東京からトルコのイスタンブールまでバスで旅した。LCCで世界一周の旅もしている。バス、列車とくれば鉄道だ、そんな思いでいたところに、断絶していた国同士の国交が始まり、線路がつながるというニュース。しかし、ルートを検討し準備を進めている間、国際列車再開のニュースはない。とうとう、「行けばなんとかなるだろう」と旅立ってしまう。

この旅は日本を出て日本に戻るツアーではない。2人は行く先々でビザをもらうために奔走し、不得手な言葉で居丈高な管理官とも交渉しなければならない。国境審査ではトイレに行くために隊列を組まされる。途中、日本と大陸の関係、隣り合う国同士の遺恨、さらには先行列車がテロで爆破されるなど、命さえ脅かされる気分になる。この先はどうなるかわからない。だから運に身を任せることもある。

これは汽車旅などという悠長なものではない。冒険だ。登山と同じくらい心細く、忍耐が必要で、ゆえに達成感の虜になりそうな冒険である。下川氏は車窓を通じて、世界の歴史や政治的事情を詳しく紹介している。それは読者サービスもあるかもしれないけれど、もしかしたら、世界を旅し、言葉も考え方も違う人々と渡り合うためには、そういう知識を踏まえた行動が必要、との思いがあるのかもしれない。

鉄道の音、色、匂いまで伝わってくる

2人は成田から航空機でサハリンへ向かう。さらに間宮海峡をフェリーで渡り、ワニノへ。ここがユーラシア大陸東端の駅だ。ワニノからウラジオストクに出てシベリア鉄道に乗ればモスクワまで行ける。しかし彼らは中央アジア横断にこだわる。

ロシアから中国へ、ウルムチを経由してカザフスタン、ウズベキスタン、またカザフスタン、ロシア、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニア、トルコ、ブルガリア、セルビア、クロアチア、スロベニア、イタリア、フランス、スペイン、そしてポルトガルのカスカイスがユーラシア大陸西端の駅。途中で2度の帰国をはさみ、7月から10月中旬までの大旅行となった。同書を読むときは、PCやスマホの世界地図をたどってみると楽しい。

下川氏は鉄道の車両や施設の詳しい描写はしない。「ロシアと旧ソビエトは緑色の客車が多かった」とか、中国新幹線では「日本の新幹線のようで無機質」と感じ、「車内ですることがない」と所在なさげ。旧ロシアの車両に戻ってほっとして、列車の速度が上がったら、「たぶん電気機関車に変わったんだ」と類推する。

各国の鉄道事情にも触れている。ロシアでは長距離列車の需要が減って、1両の客車がコバンザメのように各方面の列車にくっついて目的地に向かう。次の列車にくっつくまでは客車ごと車庫に入れられて一夜を過ごす。鉄道ファンにとってはかなりうらやましい経験だ。鉄道需要の世界的衰退で、乗ろうとしていた列車がなくなっていたり、国境を越えるにはバスのほうが便利だったり、どうも鉄道の分が悪い場面も多い。接続が悪くても、いったん引き返して乗り換えても、それでも2人は西へ向かう列車を乗り継いでいく。

機関車の形式名や形の描写は出てこない。ただし下川氏は、匂いや色、音、気温で生々しく各地の列車の旅を説明している。食事の場面も含めて、臨場感はたっぷりだ。イタリアやフランスの高速列車はプラスチックの香りがするとか、ホテルで頭を洗うと鉄道の匂いがしたとか、ニヤリとしつつ、感心する場面も多かった。

同じように旅してみたいと思ったものの、さまざまなトラブルを乗り越える自信はない。こんな旅ができるのは下川氏の経験とバイタリティだろう。同書は鉄道旅行本ではない。冒険記だ。新田次郎の登山小説に通じる雰囲気が感じられる。