岸田文雄総理大臣が、自身の長男を政務秘書官に任命―。このニュースを聞いて、椅子からどたーんと転げ落ちたのは、私だけではありますまい。まだ若く、経験も多いとは言えない若者に、そんな大役がつとまるのでしょうか。岸田政権の支持率が急落していることもあって、総理大臣でいられる間の生前贈与、世襲の強化と捉えた人も多いことでしょう。

政治家の世界は、世襲が多いのは事実であります。首相経験者だけで見ても、岸田首相自身も三世議員、安倍晋三元首相の祖父は岸信介元首相、福田康夫元首相の父親は福田赳夫元首相、小泉純一郎元首相も三世議員と、まー、世襲だらけ。しかし、それもむべなるかな、選挙には「地盤(組織)、看板(知名度)、カバン(資金)」の3つがなければ勝てないと言われていますから、一般人がそう簡単に参入できる世界ではない。だからこそ、“あの人”は亡くなった今も、強烈な存在感を放っているのでしょう。

超簡単にふり返る、田中角栄元首相の生涯

あの人とは、田中角栄元首相。大正7年(1918年)に雪深い新潟に生まれ、極貧家庭に育ちます。成績優秀だったにも関わらず、高等小学校を卒業した後は働かねばなりませんでした。働きながら、建築関係の専門学校に進み、会社を立ち上げます。ビジネスセンスがあったのでしょう、会社は急成長を遂げ、言い方が悪いのですが、カネを作って政界入りします。

記憶力の正確さと実行力のすごさから「コンピューターつきブルドーザー」と呼ばれた角栄氏ですが、政界入りして間もない30代の無名時代に、30を超える議員立法を成し遂げるなど、早くもその片鱗を見せています。この議員立法というのは、簡単なことではないそうです。まず、自分が猛勉強して、その分野に熟知しなくてはならない。その上で、東大出が多いであろう官僚とやり合い、うまく調整をはからなくてはいけないそうです。

「田中角栄 魂の言葉」(三笠書房)によると、角栄氏は官僚の出身大学はもちろん、結婚記念日などの個人情報も覚えていて、夫婦で角栄氏の自宅に遊びに来いと言うなど「オレは君たちを大事に思っている」アピールを欠かさなかったようです。部下だけでなく、その妻にも配慮があったそうで、角栄氏が郵政大臣だった頃は、官僚を自宅に招く際は夫人同伴を基本とし、「私は常日頃みなさんのご主人にお世話になっているものですが、これもひとえに奥さま方のおかげということであります。ありがとう」と挨拶し、その様子を取材した記者の奥さんの分のおみやげを渡すことも忘れなかったそうです。

ジェンダーフリーのジェの字もない時代でしたが、角栄氏は「女性のチカラ」というものを経験則から感じ取っていたのかもしれません。角栄氏は「男は信用できない奴が多い。票のとりまとめを頼まれ、半分を自分の懐に入れるならともかく、全部定額預金にする奴もいる。そこへいくと女は潔癖だ。『この男』と決めたら、テコでも動かない」と言ったそうですし、実際、角栄氏の金庫番は女性でした。

角栄氏の気配りは、自分の仕事に直接関係ない人にも及んでいて、たとえば料理屋さんに行ったときに気に入らないことがあったら、女将に直接言え、間違っても下足番など、立場の弱い人に当たるなとか、チップをあげるときも新札で、自分の運転手の家族が病気になったときも病院を世話してやるなど、気配りの細かさを物語るエピソードがたくさん残されています。そんな角栄氏は「人情味のある人」と呼ばれているわけですが、私に言わせると「悲しみの多い人」なのではないかと思うのです。

「悲しみの多い人」と「悲しみのない人」の違い

飲食店でやたら威張る人が嫌だというのは、角栄氏が「威張られた人の側」に立って、物を見ていることの証拠ではないでしょうか。

先日、三世議員でもある小泉純一郎元首相が「小泉孝太郎 ムロツヨシ 自由気ままに二人旅」(フジテレビ系)に出演し、懇意とする料理店を紹介していました。撮影スタッフを労おうと思ったのでしょう、小泉首相は料理店に「おい、(撮影スタッフに)弁当作ってやってくれよ」と頼んでいましたが、私が思うに、これが「悲しみのない人」の労いなのです。それほど大きくない飲食店ですから、板前さんが多数いるわけでもない。このコロナ禍の時代、どこも客足が伸び悩んでいますから、食材の仕入れだって少な目にしているかもしれないし、お店で出す料理とお弁当向きの食材は違う。でも、客、特に元総理大臣にそうは言えないから、場合によっては無理をすることになる。

もし角栄氏ならあらかじめ頼むか、最初に「弁当○人分作れる?」と店側に質問したのではないでしょうか。石井妙子氏の「日本の血脈」(文春文庫)によると、小泉首相自身は格別贅沢に育ったというわけではなさそうですが、横須賀に根付いた政治家の三代目として、それなりに厚遇されて育ってきたはずで、「殿さまの労い」になるのも仕方ないことでしょう。

田中角栄の名言「世の中、嫉妬とソロバンだ、嫉妬はインテリほど強い」

角栄氏の「悲しみ」の際たるものは、学歴ではないかと思うのです。角栄氏は学歴がないことを気にしていなかったと言われますが、私はそうは思いません。角栄氏は大蔵大臣就任の際、官僚を前にして、「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財務金融の専門家ぞろいだ」と演説を始めたのだそうです。演説の最初に学歴を持ちだしてくるあたり政治家や官僚にとって、学歴というものがどれだけ大きな意味を持つのかが骨身にしみていたのではないでしょうか。

角栄氏は「吉田茂さんは佐藤栄作さんより、池田勇人さんをかわいがっていた。人は自分より美男子ではない、頭の悪いのがかわいい」と語ったとされています。学歴のように自分より秀でている“証拠”を持たぬ者を認めたくないが、秀でるものが多すぎると嫉妬を買うというのが、角栄の「嫉妬の理論」だったのではないでしょうか。角栄氏はその出世ぶりを豊臣秀吉になぞらえて、「今太閤」と呼ばれたこともありましたが、学歴がないことをアピールすれば、国民には「そこから総理大臣に上り詰めるなんて、すごい」「自分にもチャンスがある」と夢を与えることになりますし、人にはそれなりに良心がありますから、自分から「学歴がない」と言っている人に対して、追い打ちをかけるようなことを言わないものです。「世の中、嫉妬とソロバンだ、嫉妬はインテリほど強い」という角栄氏の発言は、それだけ角栄氏が嫉妬を見てきた証拠だと思うのです。

心理学は嫉妬に関する実験が多く、多くの研究が「嫉妬されていいことはない」「嫉妬されるようなことは、しないほうがいい」と結論付けていますから、角栄氏の“戦術”は正しいと言えるでしょう。しかし、盲点もないことはないのです。嫉妬は他人のラッキーを見たときに生まれると巷で考えられていますが、そうとばかりは言えず、「自分より劣っていると思っている人のラッキー」に嫉妬を覚えるとされています。ですから、角栄氏が腰低くふるまえばふるまうほど「学歴もないくせに、うまくやった」と見る人もいるでしょうし、学歴はリカバリー不能な事実なわけですから、その一点で「自分より下」と見る人もいるわけで、どんなに頑張っても嫉妬されるリスクをゼロにはできないのです。

角栄氏といえば金権政治の権化とされていますが、官僚出身で田中派長老の政治家が「あまり派手にやるな」と注意したところ、「オレには学歴も人脈もない。カネだけが武器なんだ」と返したとされています。嫉妬をおそれ、嫉妬されないようにカネをばらまく。もしそうなら、カネはいくらあっても足りませんし、それがロッキード事件という汚職事件につながっていくのだとしたら、悲しいことだと思うのです。

「出る杭は打たれる」という日本のことわざは、日本人の嫉妬深さを表していると言われています。しかし、上述したとおり、嫉妬というのは「むこうがこっちを勝手に下に見ている」ことで生まれるわけですから、実は相手の問題なのです。嫉妬されないようにふるまうのは大人のエチケットですが、嫉妬されないように気を使いすぎないようにしたいものです。