"せともの"の街、愛知県瀬戸市。この街は火の街・土の街と呼ばれ、昔から真っ白な陶土や自然の釉薬が採れるため、やきものの産地として栄えてきました。「ものをつくって、生きる」そのことに疑いがない。それゆえ、陶芸に限らず、さまざまな"ツクリテ"が山ほど活動する、ちょっと特殊なまちです。瀬戸在住のライターの上浦未来が、Iターン、Uターン、関係人口、地元の方……さまざまなスタイルで関わり、地域で仕事をつくる若者たちをご紹介します。

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Vol.12 原型師 兼 立体作家・吉島信広

  • 「コネル陶芸大学 Zoom校」にて、運営メンバーが描いた恐竜をつくる様子

今回ご紹介するのは、吉島信広さんです。陶芸業界では躍動的なキャラクターの原型をつくるノベルティ原型師として。美術業界では「サブカル×瀬戸の伝統的な技術」を融合させた作品をつくる立体作家として独自の道を歩んでいます。ふたつの顔を持つ吉島さんが独立するまで、そして、今後について、お話をおうかがいしました。

「原型師」とは

  • 吉島信広さん。立体作家であり、原型師。1979年、佐賀県有田町生まれ。ご実家は創業100年以上続く有田焼の卸売業

みなさんは、原型師というお仕事をご存知だろうか? 世の中で見かける、さまざまなキャラクター商品やオモチャ。これらを量産するときには、必ずまずはキャラクターの「原型」が作られ、その「原型」を使って型がつくられ、世の中に広まっていく。

吉島さんは、陶器の商品を中心とした、様々なキャラクターの原型を手がける原型師。これまでに制作した原型は1,000個はゆうに超えるといいます。そんな吉島さんが原型師への一歩を踏み出したのは、就職活動のときのこと。

「『自分が何やりたいかな?』と考えたとき、実家が佐賀県の有田にある有田焼の卸問屋で、やきものが身近のこととして浮かびました。僕自身はあまり器には興味がなかったんですが、小さい頃は粘土が好きで、よく遊んでいたんです」

名古屋の大学を卒業後、陶芸の技術を身につけようと、瀬戸市にある愛知県立瀬戸窯業高等学校専攻科へ。

「学校で2年間勉強するなかで、授業で原型師という職業があることを聞いて、『これだな!』と思いました。僕は小さい頃に、遊びながらつくっていた人形がつくりたかった。だけど、小さい頃やっていたぐらいの技術だから、思うようにつくれなかったんです。そんなとき、原型師という存在を知って『これだ』と思った。『この技術の勉強をしたい!』と思った。生まれて初めて強く思ったんです」

ところが、先生にどこで働けるのか聞いたら、「ない」と言われてしまう。

  • 明治時代から1960年代、瀬戸では「セトノベルティ」と呼ばれる、陶磁器製の人形の輸出が盛んだった。ところが、円高などで1980年代から衰退。かつては花形職業だった原型師はどんどん減り、高齢化が進み、消えようとしている

原型師の求人はないはずが、23年ぶりの奇跡の求人

ところが、奇跡が起きた。

「卒業の年に、23年ぶりに名古屋の中小企業で原型師を雇いたい、という雇用が出たんです。『そういえば吉島くん、原型師になりたいって言ってたよね? なれるかもしれんよ』と。それで、会社の面接へ行きました」

入社してから、直属の上司にあたる師匠が「若い子をひとりでも育てないといかん!」と会社に訴え、「自分が卒業してお世話になった学校からひとり入れたい」と言ってくれたことが人員募集のきっかけだったということがわかった。

「1年前でも、1年後でもダメでした」

  • 吉島さんの仕事道具

残業はしない。作家活動の日々

入社後は、原型師といっても会社員のひとりとして、デザイン課からあがってくるデザインを受け取り、原型をつくる日々。部下として、師匠の技術の高さを目の当たりにする。

「有名キャラクターを手がける会社の方からお墨付きをもらうトップの原型師。陶器の立体は、どうしてものっぺりとして、安定感がすごく出てしまう。でも、師匠はキャラクターに躍動感をつけながら、安定させる。教えていただけたことが、僕の最大の財産です」

24歳で入社した当初から、作家として作品をつくりたいという思いはあった。卒業とともにアトリエも借りてはいた。ただ、アトリエに行くことはできかった。

「覚悟ができていなかったんだと思います。作家として本気でがんばろうと、本気で作品を売り込みに行ったのは、28歳頃ですね」

  • 作業中の様子

削れるものは削り、作家として生きる

「中途半端なことはしてちゃダメだと思って、僕は残業を一切しないことにしました。就業時間終わりの18時きっちりに帰る。上司よりも先に帰るのは心苦しかったんですけど、その代わり、納期までには必ず間に合わせる。窯代が必要だったので、許可をもらってアルバイトも始めました」

時間の都合からゲームセンターのバイトを始めた。週2回程度、夜の8時頃から深夜1時ぐらいまで働く。そのほかの平日や週末を作品づくりの時間にあてた。

「アルバイトは2年ほどで辞めました。このままだと、本当にやばいなと思った。凡人なので、あれもしたい、これもしたい、遊びたいなどと、ベクトルが多すぎた。何を優先させるのか? 今のスタンスだと無理だなと思って、作家として生きる生き方に切り替えたんです。アルバイトの給料が減った分、削れるものを削り、暮らしました」

  • 作品「狡(コウ)」

  • 作品「王冠蛸」

信頼できる画廊との出会い

吉島さんは漫画やアニメ、怪談・民間伝承など、いろいろ含めてサブカルチャー全般が好き。それを作品づくりにも反映させ、「サブカル×瀬戸の伝統的な技術」を融合させ、独自の作品をつくり、売り込みも本格的に始めていった。

「名古屋や東京、いくつかのギャラリーに持っていきましたけれど、あまりいい結果は得られなかった。でも、名古屋にある(現在は東京)『万画廊』さんが、厳しい意見とともに、チャンスをくださった。『この人と一緒なら自分の作品が進化していきそうだ』と思って、チャンスに応えられるように、何度も作品を持っていくようになりました」

「全然売れていないにもかかわらず、万画廊さんで個展を開いてくださったんです。ものすごいリスクですよ。売れなかったら、まったく利益が出ないかもしれない。そこに感激しました」

今、吉島さんは陶芸業界ではなく、美術業界で生きている。「万画廊」さんに所属する作家として、マネージメントはお任せしている。デビューのときの作品の値段は、高くても5万。それを2人で相談して少しずつ上げていき、今は小さい作品で15~16万円。大きいものだと30万~40万だという。

「陶芸業界だと、ふつうのごはん茶碗だと10万円はつけられない。そのかわり、陶芸家さんは売れるところはたくさんあって、数を出せるという強みがある。美術品の場合は、1点が売れるかどうかの勝負になってくるので、作品自体の付加価値をあげていかなきゃいけない。10万円で購入できるお客がいても、20万円では購入できない。20万円で購入できるお客さんは新たに見つけなきゃいけない。めちゃくちゃ厳しい世界です」

吉島さんは、作家として独立するため、32歳のときに会社を辞めた。けれど、原型師としても活動を続けている。

「『原型をつくってほしい』という会社はまだあります。『自分は作家だからやりません』ではなく、求められていることに応じる責任が自分にはあると思っています。瀬戸の伝統的な技術や産業を少しは担える立場にいるので、自分でできることは担っていきたいです」

  • 自分の後継者について悩む日も増えたという

最近では、後継者のこともどうしようか悩んでいる。60代以上の高齢者が多く、瀬戸では吉島さんより下のノベルティの原型師に、出会ったことがない。ほかの産地にもいるのだろうか?

「『お金なんかいらないので習いたいです!』というやる気がある人がいれば、教えてあげられる。けれど、毎日勉強して、商品として原型が出せるまでに早くて3年。しかも、才能がないと芽が出ないこともある世界です。でも、僕が伝えられることは、伝えていきたいです」

知らないだけで、もしかしたらいるかも。

最後に、今後挑戦していきたいことをお話しいただいた。

「僕自身の今後の展開としては、海外での展示を視野に入れて、戦略を考えています。新型コロナウイルスの影響は、めちゃくちゃあります。ただ、作品自体は腐らない。いい作品をつくっておけば、のちの財産になる可能性があるので、つくり続けます」