金持ちになりたい者はいるが、明確にいくら欲しい、という者は案外少ない。「金は海水と同じで、飲めば飲むほど喉が渇く」と言ったのは、ドイツの哲学者・アルトゥル・ショーペンハウアーだが、確かにあってもなくても、いくら持ってもまだまだ欲しい、と思うのが金というものだ。

だが、たくさんあったとしても、果たしてそれを毎日、背中にくくりつけて生きていくわけいはいかない。100万円の束が100個、つまり1億円は約10kg。よくTVドラマで出てくるアタッシェケース1個だが、あれを持って歩くのはかなりしんどいぞ。まして2億、3億円ともなると……。結局、預金とか株式とか金塊とか不動産に置き換えるわけだが、これとて持ち歩けるのはせいぜい預金通帳くらいのものだろう。

中には部屋に1万円札を敷き詰めて生きているという悪趣味の輩や、あるいは表に出せない金で銀行にも預けられない、という不法者もあるだろうが、それとて毎日、持ち運ぶわけにはいかない。ヤクザが恐ろしいのは、その背後にある暴力装置が「怖い」と感じるからだが、同じように金持ちが尊敬されるのは「いい思いをさせてくれるかも」という幻想があるからだろう。実際に金のあるなしは、厳密には「ありそうだ」と「なさそうだ」との偏見と先入観でしかなく、その実態を知るのは当人か金融機関、そして国税局くらいのものだろう。いや当人だって、実は知らないことの方が多いのかもしれない。

それはともかくこの幻想について、恋愛との関係において、どのような作用をもたらしているのかを考察してみることにする。世には「カネがないからモテない」という男たちが山ほどいるが、その仮説自体が空論、すなわち非現実な想定である。ここで結論を急ごう。世のモテない男たちよ、早く気づくのだ! キミたちは「カネがないからモテない」のではなく、「カネがなさそうだからモテない」のだ、ということを!

どういうことか?

もちろんカネは恋愛において、特に男にとっては重要なアイテムであり、カネがあることは女にとっても重要なファクターであることは間違いない。しかし、先ほども見てきたように、カネはあるなしが問題ではなく、ありそうか、なさそうかが実は問題なのである。実際、財布の中身を見せて、それで付き合おうという男がいるだろうか。その預金通帳の残高を確認して、「じゃあ今夜ベッドで」と、その誘いを受ける女などがいるだろうか? そもそも預金通帳の残高そのものが、現金ではない。ただの数字の羅列である。仮に1億円、10億円、100億円持っていたところで、実際に背負って歩いているわけではあるまい。仮にカネがモテている最大の理由だったとしても、それは文字通り持って歩いているわけではなく、持っていそうに見える幻想、すなわち非現実の姿で瞞(まやか)しているだけのことである。

もちろん預金残高が単に数字の羅列であったとしても、その羅列が換金能力を示す数字であることも事実だ。残高が10万円の男より、1億円ある男の方がボクが女であってもなびきそうな気がする。しかし冷静に考えても見てほしい。1億円の残高を持つ男が、1,000万円もするディナーや洋服を贈ってくれるわけでもない。意外と残高10万円の男の、それも無理しておごってくれる金額とたいして代わらないことも多かったりして。金持ちはケチだというのは、貧乏人の僻みや嫉みもあるのだろうが、案外当たってもいる。吝嗇家だから金持ちなのであって、浪費家だから貧乏なのだ。

まあ、そんな分析はともかくとして、カネがない者は「ある」と思えばいいのだ。脳は現実と空想を分類しないという。一度、ハワイに行ったことのある者なら、目を閉じればハワイに行ける。もちろん空想だが、行った気になれる。だとしたらカネなんかある、いっぱい持っていると思えばいいだけの話だ。なんなら通帳の預金残高に、勝手に数字を足して桁を増やしてしまえばいいのだ。2億$でも500億円でも好きなだけ。

500億円あると思えば、仮にデートで牛丼チェーン店に誘ったとしても、それほど惨めな気持ちにはならないだろう。実際、女の子はそういう店に入ったことがないから新鮮だろうし、何より「カネを持っていそうな男」となら、なにを食べたとしてもハッピーなのだ。

なに? 牛丼屋に誘うカネもない。う~ん。それくらいは働きなさい!

本文: 大羽賢二
イラスト: 田渕正敏