昨年、茨城県日立市は市制施行80周年を迎えた。時を同じくして、新たな市庁舎が2017年に竣工している。新市庁舎の落成は東日本大震災からの復興の総仕上げと、日立市は位置づけている。いわば、日立市は新庁舎が完成させたことで新たな道を歩み始めたことになる。
新たな市庁舎は、日立市出身の建築家・妹島和世さんがデザインした。妹島さんは2011年に新たに竣工した日立駅のデザイン監修者も務めており、それだけに日立市庁舎・日立駅というふたつの顔を担当したことになる。妹島さんがデザイン監修した日立駅は、全面的にガラス張りの構造が採用された。駅の通路から雄大に広がる太平洋を一望することができることが新生・日立駅の特徴ともいえる。
朝焼けで紅潮した海面は、なんとも言えない美しい風景になる。時間を忘れて、ただただ駅から海を眺める。そんな人も少なくない。日立駅からのオーシャンビューが話題を集め、その景色を見るために朝早くから日立駅へ足を運ぶ観光客もいるほどだ。
そして、太平洋を眺められるスペースに隣接して、カフェも設けられた。美しい海を眺望しながら楽しむティータイムは、優雅なひとときを演出。それが地元民・観光客を問わず日立駅の人気をさらに押し上げている。
日立は明治期から採掘が始められた鉱山の活況によって、人口が急増した。その後も鉱工業都市として発展を続ける。現在の日立駅が立地していた場所は、厳密には日立ではなく隣接していた旧助川町に所在していた。そのため、開業当初の日立駅は助川駅という駅名だった。日立町と助川町は1939年に対等合併。新市名を日立市としたため、駅名も同年に日立駅へと改称している。
明治期から昭和40年代にかけて、日立鉱山から採掘される銅と硫化鉄鉱は日本の工業に欠かせない資源だった。日立鉱山から産出された大量の銅と硫化鉄鉱は、鉱山の麓にある大雄院駅から日立駅まで敷かれた日立鉱山専用電気鉄道で運搬された。日立鉱山専用電気鉄道は物資輸送だけではなく、鉱山で働く労働者の通勤の足としても機能していた。
しかし、戦後は自動車が普及し、道路の整備も急ピッチで進んだ。鉱山からの運搬はトラック輸送がメインになったこともあり、1960年に日立鉱山専用電気鉄道は幕をおろした。そして、日立市に繁栄をもたらした日立鉱山は1981年に閉山する。
駅前に広がっていた日立鉱山専用電気鉄道の駅舎などは解体され、同地には図書館・科学館からなる複合施設の日立シビックセンターが建設されている。また、シビックセンターに隣接して新都市広場も設けられた。
日立鉱山が閉山したこと、往時のにぎわいを失うと思われた日立駅だが、日立駅一帯には日立製作所の工場や研究所などが点在し、いまでも操業を続けている。そのため、日立駅は急激な衰退から免れている。日立製作所は日立鉱山で使用する機械のメンテナンスを担当する部門として発足し、そこから分離独立した。日立鉱山が閉山した後も、日立製作所は国内屈指の機械メーカーとして成長を遂げている。
日立駅の中央口から線路沿いに南へと延びる道路は、日製正門通りという名前がつけられている。また、駅前広場には発電用タービンのモニュメントが展示されており、そこからも日立市と日立製作所の濃密な関係が窺える。日立駅から日製正門通りを南下すること約10分。日立製作所の創業者・小平浪平に関する資料などを展示した記念館が見えてくる。同館は2021年をメドに、現在地から市内の別の場所へと移転することが予定されている。現在地は日立製作所の工場の一画にあるため、同館を自由に見学することはできない。移転することにより、一般開放される予定だ。
ただ、現在地では戦前期から日立製作所の工場が操業していた。軍事的にも重要だった日立製作所の工場は、アメリカ軍のターゲットになった。そのため、日立市街地は3回にもわたる大空襲を味わうことになる。小平浪平記念館の裏手には、その空襲時に1トン爆弾が着弾した痕跡が今でも生々しく残されている。小平浪平記念館もさることながら、1トン爆弾の着弾跡は戦争の悲惨さを後世に伝える貴重な歴史遺産というべきものだろう。
新天地に開設される小平浪平記念館にも所蔵の展示品は移すことができるだろう。しかし、1トン爆弾の着弾跡を持っていくことはできない。移転によって、少なからず戦争の記録が消失し、記憶は風化するだろう。時間とともに戦争体験者が減り、そのために戦争を語り継ぐことが難しくなることは仕方のないことだが、遺産も消失してしまうとなると残念でならない。
そのほか、敷地内には日立鉱山時代の創業小屋も再現されている。日立市の近代化を推進した日立鉱山は、その後にJXTGへと改組しながらも現在も日本経済を支える企業として活躍している。そして日立製作所および日立グループとともに日立市をここまで発展に導いた。JXTGや日立製作所のほかにも日立を工業都市へと導いた大企業がある。それが、日立セメントだ。
日立セメントは社名から日立製作所の関連企業と思われがちだが、1907年に佐賀出身の関清英が助川セメント製造所として創業した老舗地元企業。1953年に日立セメントに改称し、現在も市内の太平田鉱山からロープウェーとベルトコンベアーを使って石灰石を運搬している。駅前広場からも、日立セメント工場から空へと伸びる煙突がはっきりと視認できる。日立セメントは、いまだ日立駅前で工場を操業している。
これらの企業が日立の発展を先導してきたが、近年は工場・営業所・研究所の移転などが進んでいる。その結果、日立駅前からにぎわいが薄れている。新たな活性化策として、日立市は市内のかみね動物園にパンダを誘致する方針を表明した。パンダの誘致が実現すれば、妹島さんが設計した市庁舎・日立駅舎とともに新たな観光の目玉になることは間違いない。鉱工業都市・日立市は新しい都市へと生まれ変わろうとしている。