どれだけ月日が経とうと記憶から消えることのない東日本大震災、まだまだ復興支援が必要な熊本地震、そして今年猛威をふるった西日本豪雨。『災害大国』と呼ばれる日本では、毎年のように自然災害が起こり、それと同時に多くの人々が助けを必要としている。

ニュースで被災地の惨状を目の当たりにし、「自分も何か力になれないか」と考える人は多いだろう。しかし、忙しい日々に追われ、自分の生活で精いっぱい……と一歩を踏み出せずにいる人もまた多いはず。

  • 被災地に移住して働く、長谷川さんの想い

    「ヤフー石巻ベース」の長谷川 琢也さん

この連載では、東日本大震災の被災地をはじめ、さまざまな形で社会奉仕に繋がる活動を行う人々を取材。彼らの想いを通じて『人のために働く』ことの意味に迫っていきたい。第2回は、震災後にヤフーが宮城県・石巻で開設した「ヤフー石巻ベース」で働く長谷川 琢也さん。

個人のボランティアから、企業での活動へ

石巻の駅前は地元の学生やビジネスマンたちが行き交い、市街地にはモダンな商業施設や飲食店が立ち並ぶ。今でこそ復旧が進み、震災の面影が目立つことはなくなった。ただ、ふと電柱に目をやると「3.11津波 実績浸水深 1.6m」と書かれた看板が。あの日、この場所に自分の身の丈にも迫るほどの津波が押し寄せたことを想像すると、思わず身がすくむ。

  • 震災時、石巻の周辺一帯も津波によって多大なる被害を受けた

「震災直後は、がれきの撤去やインフラ整備など復旧ベースのことが行われていましたが、今問題視されているのは『復興格差』です。例えば、震災で家を失った人とそうじゃない人では経済面でも生活面でも差が生じてしまいます。そんな風に、今もなお『元気な人』と『そうじゃない人』の差が広がっている印象は受けますね」

震災翌年の2012年から宮城県・石巻に移住し、約6年にわたって被災地を見守ってきた長谷川さんは、そう話す。今回、取材に伺った「ヤフー石巻ベース」は、地元の新聞社である河北新報社石巻総局/三陸河北新報社のビル1階に入居しているのだが、このビルもまた震災時に津波によって甚大な被害を受けたのだという。

  • 石巻の市街地に立地する「ヤフー石巻ベース」

それから復旧が進み、1階にホールとオフィスを設ける話が持ち上がった際、現地オフィスの新設を考えていたヤフーと話がまとまり、現オフィスが誕生。長谷川さんは、そのオフィスの立ち上げメンバーのひとりとして尽力した。

「実は、自分の誕生日が3月11日ということもあり、東日本大震災が起きたときは運命的なものを感じ、居ても立っても居られずに震災直後から現地でボランティア活動を始めました。でも、被害があまりにも広範囲に及んでいたこともあり、個人での支援に限界を感じたんです。それから会社に提案してプロジェクトを立ち上げ、同じ志を持つメンバーとともに現オフィスで働くことにしたんです」

大切なのは『ギャップ』を埋めること

2012年、石巻に移住した長谷川さんたちは、まず『自分たちが何をすべきか』を考えることから始めたという。

「遠く離れた東京で何をすべきか考えるよりも、『本当に被災地のためになること』をするためには、現地で考えることが大事だと思い、石巻にやってきました。それからいろいろな人に話を聞いたうえで取り掛かったのは、インターネット通販で東北の産業を盛り上げる『復興デパートメント』(現・東北エールマーケット)でした。これは東京で立ち上げたサービスだったのですが、現地の方々の後押しもあり、まずはこのサービスの運営に注力することにしたんです」

この活動が、現在、長谷川さんが取り組んでいる水産業の発展を目的とした「フィッシャーマン・ジャパン」の事業に繋がるきっかけにもなった。

「現地で水産関係の方と話をして、せっかく海に恵まれた場所なのに漁業が衰退しつつある現状を知りました。調べてみると、それは日本全体にも言えることだとわかり、どうにか漁業を盛り上げたいと思って立ち上げたのが『フィッシャーマン・ジャパン』です。かっこ良くて、稼げて、革新的な『新3K』というテーマを掲げ、漁師の学校をつくったり、求人サイトをつくったり、シェアハウスをつくったり、流通モデルをつくったり……さまざまな取り組みを行っています」

2014年から始まった「フィッシャーマン・ジャパン」の活動は、今や石巻だけでなく、北海道や九州など各地でも導入したいという声が出るなど、全国的な事業へと成長している。しかし、周囲に認められるようになったのは「つい最近のことです」と、長谷川さんは話す。

「東京で仕事をしているときは『新プロジェクトを3カ月で始動させる』なんてことはよくありましたが、こっちでは、3カ月じゃ何もできません。魚の養殖だって野菜を植えるのだって、3カ月で食べられるようにはなりません。ビジネスもそれと同じで、こっちでは3カ月で評価してもらおうと思ったらダメ。『フィッシャーマン・ジャパン』も立ち上げて3年目ぐらいから、ようやく周囲の方々に認めてもらえるようになりました」

  • 地元の人々が行き交う石巻駅周辺

時間感覚の違いなど、東京から石巻にやってきた当初はギャップを感じることも多かったという長谷川さん。しかし、そのギャップを埋めることこそが『自分たちがすべきこと』だと語る。

「こっちに来たときは、時間も価値も金銭もすべての感覚の『ものさし』が東京とは違うことに驚きました。でも今は、そのギャップを埋めることこそ、僕らが大切にすべきなんじゃないかって。東京と地方を繋ぐこと、行政と漁業を繋ぐこと……双方を理解し、うまく間を取り持つことで新しい価値を生み出せればと思っています」

みんなで紡ぐ、東北の未来

知らない土地で、知らない人たちと新しいビジネスをつくっていく。それは並大抵のことではない。ましてや、未曾有の大災害によって被害を受けた場所。これまで長谷川さんはどのような想いを胸に働いてきたのだろうか。

  • 移住して6年が経ち、すっかりこちらの生活に馴染んだと話す長谷川さん

「『みんなでやりたい』って想いがあるんです。新しいことを始めるときは、よそ者も、地元の人も、若いフレッシュな発想の人も、伝統的な考えの人も……いろんな人の想いを混ぜ込んで、その上でみんなが腹落ちすることやりたい。もともと、僕はコンプレックスの塊で自分に自信がないんですよ。みんなに助けてもらわないと生きていけない。だからこそ、石巻に来てからもいろんな人たちに巡り合って助けてもらって、ここまでやってこられた気がします」

「あと、幼い頃から漁師や農家のようにゼロから物を生み出せる人に憧れを持っていたんです。今はそんな憧れの人たちから『一緒に仕事をしよう』って言ってもらえることが、純粋にすごく嬉しいですね」

震災から7年が経ち、もともと『復興』をコンセプトに掲げていた「ヤフー石巻ベース」の活動は今、『東北共創』へと移り変わっている。

「今、自分たちは『復興』ではなく、地元の人たちと次世代に続くようなモノを一緒につくっていきたい。そんな想いで働いています。もう今は、一緒に働いている地元の子だけじゃなくて、その家族まで気になっちゃうんですよ。お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、みんな知ってるから。中小企業の社長みたいですよね(笑)。やっぱ好きになっちゃうし、みんなのためにもがんばらないとって思うんですよ」

  • 駅前の商店街で見つけた、ボランティアの方々への張り紙

取材時、地元の方々がたびたびオフィスを訪ねてきては、「こないだはありがとうね」「久しぶり! 元気してる?」など、気さくに長谷川さんたちに話しかけていた。きっと、こんな何気ない風景が、よりよい東北の未来を紡いでいくに違いない。

取材協力:ヤフー