「沖縄」と「鉄道」。本土の多くの人にとって、イメージ的にあまり結びつかないものだろう。それ以前に「沖縄に鉄道があるの」という声すら聞こえてきそうだ。実際、僕が初めて沖縄を訪れた20世紀の終わり頃、沖縄には鉄道がなかった。当時、日本の鉄道の最西端は長崎県で最南端は鹿児島県、つまり、ともに九州だった。


しかし今では、沖縄県にも鉄道がある。2003年夏、モノレールが那覇市に開業した。これに伴い、"日本の端の鉄道"をめぐる事態は一変。日本の南西端に位置する沖縄県のことだから、当然のごとく、その路線の中に最西端と最南端の駅を含むこととなった。

沖縄県民待望の鉄道誕生

戦後、鉄道がなかった沖縄では、公共交通機関といえばバスであり、交通手段も自動車に限られていた(※)。当然、交通渋滞はひどかったから、那覇市内の短い区間とはいえ、モノレールの開通は沖縄の人々にとって待望のものだったといえる。

沖縄都市モノレール「ゆいレール」は、2003年8月10日に開業した。営業距離は12.9kmで、駅数は15。1本のレールを車両がまたぐ、いわゆる跨座式のモノレールである。区間は那覇空港から世界遺産首里城のお膝元・首里まで。那覇市の中心部を右に左にくねりつつ走っている。

2両連結で走る沖縄都市モノレール「ゆいレール」。沖縄独特の相互扶助の概念である"ゆいまーる"をもとに名付けられた(旭橋駅で撮影)

南側の始発駅・那覇空港駅がこの路線のいちばん西にあたり、つまりは日本最西端の駅となる。同時に最南端駅でもあるんじゃないかと思うかもしれないが、それはまた別にある。 那覇空港駅を出たあと、ゆいレールはいったん南へ下がる。そこで、那覇空港駅の次の赤嶺駅が日本最南端の駅となっている。最西端駅と最南端駅が並んでいるという、端っこフリークにしてみれば実にゼイタクな場所だといえる。

空港のターミナルビルから通路で直結している那覇空港駅。改札の右脇には「日本最西端駅」の記念碑が建っている。しかし写真を撮ったりする人は限られ、多くの観光客は素通りしていく

こちらは那覇空港駅からゆいレールに乗ってすぐ隣、日本最南端の赤嶺駅。駅から出て南側のロータリーに「日本最南端の駅」の記念碑がある。台座には北緯26度11分36秒とその位置が刻まれている

那覇空港駅のホームの先端で、レールは途絶える。その向こうには東シナ海が見える。こういうところに、妙に最果て感を覚えたりもする

(※)厳密にいうなら1975~76年の沖縄海洋博において、会場内に長さ1.4kmの新交通システムが期間限定で設けられたこともあったが、常設の鉄道となると戦後一貫して沖縄には存在していなかった。

ゆいレール誕生時のエピソード

国際通りから竜宮通り社交街という細い路地を入ったところに、僕が那覇へ行くとかならず寄る店のひとつ「山羊料理さかえ」がある。20年30年と通い続けている地元の常連さんと、本土からやってくる観光客、ビジネス客たちが、カウンターで肩を並べて楽しくしゃべりながら、"島" (泡盛のこと。沖縄ではこう呼ぶ)を呑み、ヒージャー(山羊)汁やヒージャーの刺身、その他もろもろの沖縄料理を食う。行くたびに新鮮な楽しさを感じさせてくれる店だ。

店は、おかみさんの生島さつえさんと、娘さんのなおみさんの二人で営んでいる。ヒージャーもさることながら、店で最大の"名物"はこのお二人。さつえさんとなおみさんに会うため、一年に何度もここへ通う本土のファンも数多い。かく言う僕もその一人だが。昔ながらの"これぞ沖縄!"というあったかい、かつ愉快なおもてなし体験ができるので、ぜひ一度、カウンターに座ってみていただきたい。「さかえ」については、また別の機会にでも詳しくお話しできたらと思っている。

その「さかえ」のカウンターで、なおみさんや地元の常連さんたちから、ゆいレール開業当時の愉快なエピソードをいくつも聞いた。いわく「片道切符を買って終点まで行ってまた戻ってきて……って何度も何度も乗ってみたさー」「おじいさんが、降りる駅で(バスのように)ブザーを押そうと探してたねぇ」「自動改札で隣の改札機に切符を入れてしまって、隣の人が困ってしまったさー」。沖縄には、島からほとんど出たことがないという人もまだまだ多い。そういった人々にとって、ゆいレールはまさしく生まれて初めての鉄道であった。そんな背景を物語ってくれる、ほほ笑ましいエピソードでもある。

この取材で訪れたのはちょうど那覇マラソンの時期だった。「さかえ」のなおみさんも朝早くから、国際通り沿いで手製の旗を振って応援。先頭から最終ランナーが通過するまで30分以上の間、ずっと「がんばれー」「ちばりよー(沖縄でいう"がんばれ")」と声を出しつづけていた。スゴイ

沖縄を走っていた軽便鉄道

ゆいレールは、(常設のものとして)戦後初めて沖縄に生まれた鉄道である。しかし、これが沖縄の歴史で初めて誕生した鉄道というわけではない。戦前、沖縄県には何本もの鉄道が走っていた。たとえば産業用の鉄道としては、南大東島をはじめさまざまな島に、サトウキビ運搬用の鉄道が敷かれていた。

そして戦前の沖縄には、旅客用の鉄道も存在していた。その代表が、大正から終戦直前の昭和20年(1945)春まで運行を続けていた沖縄県営鉄道である。一般的な鉄道とは異なる規格で造られた「軽便鉄道」のひとつで、軽便は正しくは「けいべん」だが、沖縄の人は「ケービン」と呼んで親しんでいた。沖縄県営鉄道は那覇を始発駅とし、北は嘉手納(現在、米軍基地で知られるあの嘉手納)、東は太平洋側の与那原(よなばる)、南は糸満まで、旅客用としては3路線を有していた。

もうだいぶん以前のことになるが、前述の「さかえ」で、とある地元の人から軽便鉄道の話を聞いた。なんでもその方の家族だか知り合いだかが、実際に那覇から嘉手納まで乗ったことがあるという。それまで軽便鉄道について聞いたことはあったけれど、一気に興味が深まったのはその時からだ。

沖縄県営鉄道以外にも、戦前の本島中南部には鉄道路線がいくつか張り巡らされていたが、どれもこれも戦争その他の事情により終戦までには姿を消してしまった。今となっては路線図などの記録が明確に残っておらず、当時の線路筋を推測でしか辿れない部分も多いと聞く。しかし現在でも、あの激しい沖縄戦や戦後の復興の波をくぐり抜け、当時の面影を偲ぶことができる場所は見つけられる。

軽便鉄道とは何の関係もないのだが、桜の名所としても知られる市民の憩いの場・与儀公園には、"デゴイチ"の愛称で親しまれた蒸気機関車「D51」が保存されている。もちろんこれは沖縄で走っていたものではなく、沖縄の本土復帰を記念して九州から贈られたものだ

「ケービン」の面影を求めて

ゆいレールで空港を出ると、旭橋駅の手前で右下に三角形の広い敷地が見えてくる。ここは沖縄本島のバス路線が集結する那覇バスターミナルだが、この地こそ、かつて沖縄県営鉄道の始発駅・那覇駅があった場所だ。

本土の人間でも、那覇バスターミナルを知っている人は多いだろう。旭橋駅から見下ろせるあの三角形の敷地は、バスターミナルのために造られた区画ではなく、軽便の那覇駅の時代からそうだったらしい

那覇駅を出た沖縄県営鉄道は、現在の国道329号付近を南東から南南東に向かって進み、ゆいレールの壺川駅近くにあった古波蔵(こはぐら)駅で北へ向かう嘉手納線、東進する与那原線に分岐。与那原線はさらにその先の国場(こくば)駅で、南へ向かう糸満線と分岐していた。

この付近には当時線路が通っていた細い路地や、線路のカーブに沿って造られた建物など、いくつもの面影を探すことができる。そのひとつ、住宅地造成中に偶然発見された軽便鉄道の線路が残されているという壺川東公園を訪ねてみた。

公園内に入ると、まず目に付くのが古い線路と、その上にちょこんと乗った機関車。これは軽便鉄道のものではなく、南大東島で稼働していたサトウキビ運搬鉄道のものだそうだ。そしてそのすぐ脇に軽便鉄道のレールが……あるはずなのだが、ない。探しても見つからない。

壺川東公園にある、かつて南大東島でサトウキビ運搬に使われていた機関車とその軌道。このすぐ脇に、軽便鉄道のレールもほんのわずかながら残されていたのだが……現在は、軽便鉄道の由来を記した碑が静かに建つだけ

数年前に撮られた写真には軽便のレールも写っていたので、そのあとなくなったということだろう。那覇市の公園管理室に聞いてみると、やはり「何年か前まではあったけれど今はもうない」とのことだった。歴史の貴重な証人が、こんなにあっさりと失われてもいいものなのかと呆気にとられつつ、その場を去ったのであった。

気を取り直して、那覇の街角ショットを3枚。上の洗濯物のように吊るされているものはイラブー(ウミヘビ)の燻製。左下はその青さが本土の人間の目を引くイラブチャー(ブダイ)で、刺身が最高にうまい。右下は知る人ぞ知る微妙な那覇名物(?)、農連中央市場の近くにある自動販売機

次回は、日本でいちばん早い初日の出の体験記をお届けします。