今回の英国取材ではスコットランドや北アイルランドにも足を延ばしました。短期間の駆け足でしたが、英国がEU離脱を進めるうえで大きな難題が横たわっていることも実感しました。
EU離脱をめぐる国民投票ではスコットランドと北アイルランドは在留派が多数でした。両地域ともイングランドなどとの経済格差がありEUからの補助金を多く受け取っていることなどが背景ですが、これをきっかけにスコットランドでは独立機運が再燃、北アイルランドも英国からの独立とアイルランドとの統一問題が浮上する可能性が出ているのです。
スコットランド独立の機運が高まる?
まずスコットランド。スコットランドでは2年前に英国からの独立の是非を問う住民投票が行われ、独立は否決されました。しかしこの時は、英国がEUメンバーであることが大前提でした。今回その大前提が根本から変わってしまったわけです。英国がEUから離脱すると、スコットランドはEUからの補助金を受け取ることができなくなります。そのため「英国から独立して、スコットランド国としてEUに加盟する」との主張が強まっています。
現在のスコットランド行政府は独立派のスコットランド民族党(SNP)が与党で、同行政府のジョーダン首相は「再度の住民投票の条件を精査する」と表明しています。
ところで英国の正式国名は日本語で「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」です。連合王国=United Kingdom(ユナイテッド・キングダム)の略称がUKです。連合王国とは、グレートブリテンを構成するイングランド、ウェールズ、スコットランド、そして北アイルランドの4つのカントリーから成っていることを表しています。つまりこの4つはもともと別々の国であり、スコットランドは1707年にイングランド王国(ウェールズを含む)と合同するまでは独立した王国でした。古くからイングランドとは民族も言葉も違う独自の文化圏を形成し、何世紀にもわたって独立をめぐる戦いを繰り広げてきた歴史があります。
英国各地を回ると、その名残りを見ることができます。今回、スターリングという町に行ってきました。現在は人口4万人ほどの静かな小都市ですが、かつてのスコットランド王国の首都で、長年にわたりイングランドに抵抗する戦いが繰り広げられた町でもあります。
市内にはかつてのスコットランド国王の居城だったスターリング城など歴史的な遺跡があり、多くの観光客が訪れています。中でも目玉は、市の中心街から少し離れた丘の上にあるウォレス・モニュメントという所です。13世紀にイングランドからの独立のために戦ったウィリアム・ウォレスという英雄を記念して建てられた塔とその内部の記念館で、館内には彼が使用した長さ2㍍以上に及ぶ剣をはじめ、ゆかりの品々が展示されています。
ウィリアム・ウォレスのことは映画にもなっています。メル・ギブソンが製作・監督を手がけ自ら主演をつとめた「ブレイブハート」で、圧政を続けるイングランドの非道ぶりとそれに抵抗するウォレスらスコットランド人の戦いを描いており、1995年のアカデミー賞の作品賞、監督賞などを受賞しています。この映画では、ウォレス率いるスコットランド軍が独立戦争の初戦で勝利したスターリング・ブリッジの戦いの様子が詳しく描かれていますが、その橋も市内に現存しており、スコットランド人の誇りを示す象徴となっています。
この映画を見ると、スコットランド人のイングランドへの独立感情が長年の歴史的な積み重ねで形成されてきたことを感じ取ることができます。現在に至るまで独立意識は強く、1999年には、1707年以来約300年ぶりに議会が開設されるなど自治権を拡大してきました。今ではスコットランドだけで通用するポンド札が発行されているほどです。こうした状況ですから、英国のEU離脱を機に再び独立の機運が高まってもおかしくないのです。
ただスコットランドがもし実際に独立すると、経済的に自立できなくなるとの見方が強いのも事実です。また仮にスコットランドが独立したうえで単独でEU加盟を申請しても、EUは加盟を認めないだろうと見るエコノミストが多いようです。EU加盟国の中には、スペインでカタルーニャ州が独立を要求しているなど国内に分離独立派を抱える国があるため、自国内の独立の動きを抑えるためにはスコットランドの独立とEU加盟を認めるわけにはいかないからという見立てです。
そのためスコットランド独立実現のハードルは高そうですが、それでも「連合王国」の亀裂が深まりつつあることは否定できないようです。
スコットランドでは2年前に英国からの独立の是非を問う住民投票が行われた |
北アイルランドの独立という議論が再燃の可能性も
一方、北アイルランドはもっと複雑で、「ある意味でスコットランドより深刻」(ロンドンのあるエコノミスト)という人もいました。こちらも少し説明が必要でしょう。
北アイルランドは、グレートブリテン島の西側にある小さな島・アイルランド島の東北端に位置し、連合王国の一角を構成しています。もともとはアイルランド島全体がアイルランド王国として一つの国でした。やはり言葉も民族もグレートブリテン島とは違い独自の文化が発達していました。
しかしアイルランド王国は1801年にグレートブリテン王国と合同して「連合王国」となり、いわゆるイギリスの一部となりました。そこで独立運動が活発化し、独立戦争を経て1922年にアイルランド自由国(のちにアイルランド共和国)として独立を果たしました。
しかしこの時に、アイルランドの北部6州だけは北アイルランドとしてイギリスにとどまりました。これが現在の北アイルランドです。このようなことになった背景には、北アイルランドはグレートブリテン島からの移住者が多かったこと、イギリスに残ったほうが経済的メリットが大きいと考える人が多かったためと見られます。しかし南北分離への賛成派と反対派の対立が激しく内戦となりました。内戦は翌年に終結しますが、その後も北アイルランドのイギリスからの独立とアイルランドとの統一を主張する声は根強く、国内対立が深刻化していきました。IRA(アイルランド共和国軍)という非合法武装組織が長年にわたり爆弾テロや武装闘争を展開し、数多くの警察官や一般市民が犠牲になったという悲惨な歴史があるのです。
これに加えてカトリック教徒の住民とプロテスタント教徒との対立が激化し、事態を一段と深刻・複雑にしてきました。同国ではカトリック教徒が社会的に差別される一方、北アイルランド政府はプロテスタント系の影響力が強く差別撤廃に消極的と言われていたためで、カトリック系住民がIRAに好意的ともみられていました。
北アイルランド最大の都市、ベルファストでその名残を目にしてきました。市の中心部からタクシーでわずか10分足らずの町の一角に、高さ10㍍以上の壁が道路沿いに延々と続いているのです。壁は石や鉄で作られ、その上にはさらに金網が張られています。タクシーの運転手によると、長さは延べ4キロメートルに達し、何か所かにゲートがあり夜間は通行できないようになっているそうです。
これは、カトリック教徒とプロテスタント教徒の住宅が接近して多く住んでいる地域で両者が民兵を組織するなどして衝突が繰り返されたため、それを避けるため1969年から建設され始めたもので、「ピース・ライン」(またはピース・ウォール)と呼ばれています。壁の存在については一応聞いてはいましたが、実際にイギリスのような先進国でこんな光景を見るとは驚きでした。それほどに対立が深刻だったのです。
北アイルランドの和平が成立したのは1998年。それ以来、IRAは武装闘争を放棄し、またカトリックとプロテスタントの物理的衝突はほとんどなくなりました。今ではベルファストの治安はすっかり回復し、爆弾テロで多くの被害を受けた中心部のホテルやビルも修復されて、一見したところではそのような過去も忘れさせてくれそうな雰囲気です。
しかしピース・ラインのように、その歴史の痕跡は所々に残っています。しかも、その多くの犠牲の上にようやく成り立った北アイルランドの和平の枠組みがEU離脱によって揺らぐおそれがあるのです。
実は、1998年の和平合意では北アイルランド(イギリス)とアイルランド共和国の間の自由な往来が条件の一つとなっています。これは、北アイルランドの独立・アイルランドとの統一という主張に配慮した形なのですが、アイルランドもEU加盟国なので、これはごく自然に実行されています。
北アイルランドとアイルランドの国境までタクシーを走らせて行ってみましたが、両国をまたぐ幹線道路沿いには国境を管理する事務所などはなく、国境の表示すらありませんでした。何台ものトラックや自家用車がスピードを緩めることなく行き交うだけで、かろうじて数軒の通貨両替店が国境であることを示していました。
しかしイギリスがEUを実際に離脱すると、理屈上はここに出入国管理事務所や税関を設置する必要が出てくるはずです。そうなると、1998年の和平合意の条件変更ということになり、せっかく収まっていた北アイルランドの独立・アイルランドとの統一という議論が再燃する可能性があるわけです。
今のところ、スコットランドも北アイルランドも直ちに情勢変化が起きるというわけではありませんが、EU離脱という選択は「連合王国」のあり方にも大きな影響をもたらす可能性があるとも言えます。過度に悲観的に考える必要はありませんが、そのリスクは意識しておいたほうがいいかもしれません。
1922年にアイルランドは独立し、北アイルランドは英国に残留、1998年の和平成立まで国内対立が続いた |
※写真はいずれも著者撮影
執筆者プロフィール : 岡田 晃(おかだ あきら)
1971年慶應義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞入社。記者、編集委員を経て、1991年にテレビ東京に異動。経済部長、テレビ東京アメリカ社長、理事・解説委員長などを歴任。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」など数多くの経済番組のコメンテーターやプロデューサーをつとめた。2006年テレビ東京を退職、大阪経済大学客員教授に就任。現在は同大学で教鞭をとりながら経済評論家として活動中。MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演。