目玉は平井デジタル改革相と河野行革相

菅新内閣が発足しました。アベノミクスの継承を掲げて自民党総裁選で圧勝菅首相は主要閣僚を留任させるとともに、閣僚の横滑りや閣僚経験者を再任するなどで、手堅い実務型の新内閣となりました。しかしその中でもデジタル庁新設や行政の縦割り打破などの新機軸を打ち出し、早くもフル回転で動き出した印象です。コロナ対策と経済再生の両立をめざしつつ、アフターコロナを見据えた改革を実行できるか――期待と課題を背負っての船出となりました。

新内閣スタート早々に注目を集めているのが、新たにデジタル改革担当相に就任した平井卓也氏、防衛相から行政改革担当相に横滑りした河野太郎氏の2人です。菅首相は16日の就任会見でデジタル庁の創設を明言するとともに、「省庁の縦割り、既得権益、悪しき前例主義、これらを打ち破って規制改革を全力で進める」と強調していましたが、それを担うのが平井、河野の両大臣です。

デジタル化はアフターコロナの経済再生のカギ

まずデジタル改革については、菅首相が指摘したようにコロナ禍で日本の、特に行政のデジタル化の立ち遅れが浮き彫りとなりました。1人10万円の現金給付が手間取ったのはまさにこれが原因でしたし、感染者について保健所から東京都への報告がFAXで行われている現状が明らかになりました。

そこで、自民党内きってのIT通である平井卓也氏を担当相に選んだというわけです。新設するデジタル庁は、各省庁に分散しているデジタル政策を一元化するとともに、マイナンバーカードの普及と併せ運転免許証や健康保険証などもデジタル化して一本化を検討するなどの報道が早くも出始めています。

ここで重要なのは、役所のデジタル化だけではなく、民間のデジタル化を後押しする政策です。たとえば契約書などの電子化を拡大するための法改正、中小企業がテレワークを拡大するための設備投資への助成、医療や教育などのオンライン化促進、IT産業の育成支援など、広い範囲に及びます。

これまで私はこの連載で、コロナ禍の中で(1)テレワーク拡大による働き方改革(2)デジタル化加速(3)新常態に対応した消費・サービス――など新たな構造変化が起き始めていると何度か書いてきました。これはアフターコロナの時代において日本経済再生の牽引車となるものです。新内閣がそのような戦略性を持ってデジタル改革に取り組んでほしいと思います。

  • コロナ禍で起き始めた日本経済の構造変化

行政改革・規制改革は「政権のど真ん中」――アベノミクスの強化にも

そしてそのためには、思い切った規制改革が不可欠です。「省庁の縦割り、既得権益、悪しき前例主義」にとらわれていては、デジタル化も進みませんし、コロナ禍に迅速に対応することもできません。

たとえば、安倍前首相がPCR検査拡大を指示しても、厚生労働省の医系技官の"抵抗"でなかなか進まなかったとの報道もあります。国と地方自治体、保健所の連携がうまく取れなかったことも指摘されています。

これら行政の現状を改革する"切り込み隊長"が河野行革担当相です。組閣翌日の17日には、菅首相の指示を受けてさっそく「行政改革目安箱(縦割り110番)」を自身のホームページ上に立ち上げました。初日だけで700通もの意見が寄せられたそうで、河野大臣の発信力と実行力に期待が集まっています。

行政改革と規制改革は表裏一体で、河野氏は規制改革担当相でもあります。規制改革の必要性はこれまで繰り返し叫ばれ、アベノミクスでも成長戦略の柱の一つともなっていました。ただそれでも「岩盤規制」と言われる強固な規制が数多く残っており、その改革は民間経済を活性化させるうえで極めて重要です。

アベノミクスについては前回書いたように(8月31日付「安倍首相辞任!どうなる日本経済とコロナ禍」)、景気回復と企業の競争力強化などで大きな成果があったと評価していますが、それでも規制改革の面では十分とは言えませんでした。菅首相が規制改革を「政権のど真ん中」と表現しているのは、アベノミクスを継承すると同時に、足りなかったところを強化して独自色を出すというねらいと言えるでしょう。

このようにデジタル改革と行政改革・規制改革は、予想される抵抗をどれだけ突破していけるかにかかっていると言っても過言ではありません。それと関連してコロナ対策の実を上げるには厚生労働省の改革も必要です。田村厚生労働相が、平井デジタル改革相、河野行革担当相と連携して手腕を発揮することにも期待したいところです。

「スガノミクス」の提示を~強力な外交との連携が重要

一方、経済政策の面では、コロナ対策と経済回復の両立が基本です。そのためには、コロナ感染拡大防止策をよりきめ細かく実施しながら、経済活動の拡大を1歩1歩進めていくことが求められます。

足元の景気は4-6月期を大底に、7-9月期は反動で大幅に上昇していると見られ、その後も緩やかながら回復が続くと予想されています。しかしコロナの感染拡大は抑制できても早期にゼロにすることは困難であり、経済活動をフル回転できるのはかなり先のことになりそうです。したがってその間は経済の下支えとなる支援策が必要で、追加の経済対策(第3次補正予算)が必要です。

  • 実質GDP成長率の実績と予測

と同時に、菅新政権の経済政策には2つの課題があります。

第1は、アフターコロナに向けた日本経済の展望と戦略、いわば「スガノミクス」を示すことです。コロナ禍を通じてすでに前述のように新たな変化が起き始めています。それは今後も中長期的に続く構造変化で、それに対応していくことが不可欠です。前述のデジタル改革や行政改革・規制改革はもちろんその重要な柱です。「スガノミクス」ではアベノミクスによって到達した競争力をさらに一段と強化するとともに、て日本経済の構造改革を後押しするような政策の体系をぜひ示してもらいたいと思います。

第2は、強力な外交と経済政策の連携です。安倍前首相は日米同盟を強化しつつ「地球儀外交」と名付けた積極的な外交を展開したことで世界中の首脳から高く評価され、日本の存在感が高まりました。そのことは実は、アベノミクスによって日本経済が復活したことと相互に影響しあっていたのです。

歴史的に見ても、どの国も外交力と経済力は相互に結び付いています。米国が世界最大の経済大国であることが、世界の外交でも中心的存在となっていることは周知の事実ですし、中国が国際政治の舞台で発言力と影響力を拡大させてきたのも急速な経済発展があったからです。経済力をバックにすることが外交的な発言力を強め、それがまた経済強化につながることは間違いありません。

日本はバブル崩壊後に経済低迷が長引く中で国際的にも発言力が低下していました。しかしアベノミクスによって経済力が戻ってきたことと安倍首相による積極外交が相乗効果を生んだのです。強力な外交は安全保障面だけでなく、経済強化の観点からも重要なのです。

「自助・共助・公助」の元祖・上杉鷹山に学べ

ところで、菅首相が発言した「自助・共助・公助、そして絆」という言葉が話題となっています。まず自分でやって見る、そして家族・地域でお互い助け合う、そのうえで政府がセーフティーネットで守る、という考え方で「こうした国民から信頼される政府をめざして縦割り打破などの改革を進める、国民のために働く内閣を作る」と説明しています。

実はこの元祖と言えるのが、江戸時代屈指の名君と言われる米沢藩主・上杉鷹山(1751~1822年)の「自助・互助・扶助」という「三助の思想」です。自助は自ら助ける、互助は近隣で助け合う、扶助は藩が助ける、というもので、呼び方が少し違っていますが、考え方は同じです。 その頃、米沢藩は当時、飢饉と経済破綻という二重の危機に直面していました。米沢藩ではすでに何年も前から米の不作が続いて藩の収入が減る一方で、歳出が膨らみ続け、膨大な赤字を抱えて破綻していました。鷹山の前藩主は藩を幕府に返上することをいったん決意したほどでした。事実上の倒産です。

そこに追い討ちをかけるように、天候異変と冷害で東北地方を中心に江戸時代最大の飢饉が起きました。「天明の大飢饉」(1782~88年)で、全国で100万人近くの死者を出したと言われています。餓死者だけではなく、飢えによって体が弱り疫病で亡くなった人も数多くいました。中でも東北地方ではほとんどの藩で死者数が数万人に達し、中には人口の半分にあたる10数万人が亡くなった藩もありました。

このような中で鷹山はまず「自助」として、農民に対し米作以外の栽培や特産品生産を奨励しました。これによって自分で飢えから身を守り生活していけるようにしたのです。また各家庭の生垣に食用となる植物を植えさせたほか、食用植物の保存法や調理法を書いた小冊子を作成し、農民にも読めるようにひらがなで書いて各戸に配布しました。天明の大飢饉が起きる前にも何度か飢饉が起きていたため、事前に備えていたのです。危機管理に成功したわけです。

また「互助」として、村ごとに5人組、10人組などを作り助け合うことにしました。特に孤児や一人暮らし高齢者、障がい者などはそれぞれの組の中で助けるようにさせたそうです。そして「扶助」で藩の直接の出番です。飢饉の際、藩士や農民などの区別なく1日当たり男は米3合、女は2合5勺を支給しました。今で言えば現金給付といったところでしょうか。       ≪

  • 上杉鷹山の主な対策

鷹山の政策はそれだけではありませんでした。あらかじめ備蓄用の蔵を数多く建設し米などの備蓄を積み上げていきました。こうした対策のおかげで、天明の大飢饉で米沢藩では餓死者がゼロだったそうです。

これら飢饉対策と並行して、経済政策では藩財政の立て直しのため徹底した倹約などによる歳出削減を断行するとともに、農地の開墾と整備によって年貢収入を増やし、ました。また殖産興業を推進し、藩と民間の経済力を高めました。いわば成長戦略です。

これらの政策を遂行するため鷹山は身分の区別なく接して、幅広く意見を求めました。藩士も農村に住まわせ、新田開墾などにあたらせました。当時として常識を超える扱いで、まさに行政改革・規制改革です。

しかし改革は一筋縄ではいきませんでした。上杉家には「我が家は謙信公以来、代々使えてきた名門」を自負する重臣が多く、彼らはことあるごとに抵抗したのです。これに対し鷹山は改革へのブレない姿勢を貫くとともに、改革のビジョンを明示して粘り強く、時には強硬に改革を成し遂げていきました。

その結果、前述のように餓死者を一人も出さなかっただけでなく、藩財政の再建も果たしたのでした。鷹山が奨励した織物や錦鯉の養殖などは近代に至るまで米沢の地場産業として発展することになります。

このように優れたリーダーシップを発揮して危機を乗り越えた上杉鷹山は、現代の我々にも多くの示唆を与えてくれています。日本がコロナに打ち克ち経済再生を果たすことができるかどうかは、私たち一人一人の感染防止(自助)、オールニッポンの協力(共助または互助)、そして政府の政策、特に菅首相の危機突破力とリーダーシップ(公助または扶助)にかかっていると言えそうです。