漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

→これまでのお話はこちら


今回のテーマは「好きな場所」である。

今更それを聞くかという気もする。「好きな空気は何?」と聞いているようなものだ。

最近言ってなかったので改めて言うが私は自宅神推し同担拒否過激派、外出×自分のカップリングは地雷で即ブロなのでそのつもりでいてほしい。

そんなわけで私はもはや好きというレベルを超えて部屋が好きである。

おそらくシャブ中の方だって「好きな薬は覚醒剤です」とは言わないと思う。それがなければやっていけないのである。

私にとって部屋がそれなのだ。

実際私を部屋から出すと、最初は平静を装うが、徐々に「部屋が切れて」挙動不審になり、かさぶたを剥ぎまくるなどの自傷行為に走る。しかし部屋に戻ってTwitterを立ち上げるとピタリと治る。

だが、サウナで我慢した後の水風呂で恍惚と化すように、外出してからの部屋の方がガンギまるというのも確かなのだ。

むしろ光と影のように、外があるから部屋があるとも言える。忌ま忌ましい外がなくなれば愛する室内という概念も消えてしまうのだ。

愛する相手が憎い相手を羽交い締めにし「俺ごと魔貫光殺砲で貫け!」と言っているようなジレンマである。

ではなぜ部屋がそんなに好きかというと、月並みだが「自由」だからである。

もちろん外でも限りなくフリーダムに生きている人はいる。だがそういう人は自由と職質が隣り合わせの生活をしているし、時に自由が法を逸脱してこれ以上なく自由じゃない環境に幽閉される危険性すらある。

実際「自由な人」というのは変わり者や自己中をボンタ飴を包んでいるアレで包んだ言葉だ。

つまり、外や他人がいる場所での自由は他人からすると奇行や迷惑になってしまう場合がある。

よって人は外にいる時、自分のフリーダム魂を封じ込めて行動する。これが「自制心」である。

しかし世の中には己のフリーダムがじゃじゃ馬すぎて全く飼い慣らせない人がいるのである。

そういう人は人前で、エアロデオを披露してしまい「ちょっとアレな人」という判断をされやすい。

私の愛馬もかなりズキュンDQNすぎて、他人にかなりのディープインパクトを与えがちなのである。

もしかしたら部屋が好きというより「外に向いてなさすぎる」のかもしれない。つまり私が部屋にいるのは「セルフ隔離」と言っていい。

こうして私は自由を手に入れ、周囲は私の自由に生活や人権を脅かされずに済むというウィンウィンとなっているのだ。

しかし「部屋で自由に暮らしている」というのは「ジャングルの木から木へ飛び回っている」のと大差ないため、内側の自由がますます抑制できなくなるのはもちろん、ビジュアルもかなりフリーダムな感じになってくる。

つまりますます外に出てはダメな人になってしまうのだ。

このように「ハマるとヤバい」という意味でも部屋とシャブの共通点は多い。

また部屋というのは、その主が耐え切れる限り、無限に汚くなる上にドンドンその範囲が広がっていくのである。

私はまだ腐海を自分の部屋内に留めているが、それでも部屋に入りきらなくなったものを他の部屋に置いたりと侵食が徐々に進んでいる。

ちなみに、それを押しとどめることなく家全体を腐海に飲み込んでしまったのが私の父である。

父も私と同じく、自室をテリトリーに自由を謳歌していたのだが、その自由ぶりは私など遥かに凌駕しており「義母が建てた家を己の私物でほぼ全室潰す」という記録的自由を樹立している。

それを考えれば、半分自分名義なのに、1室しか制圧できていない自分は青いとしか言いようがない。

そんな父だが、先日風呂でぶっ倒れてしまい、現在入院中である。 父も私と同じく強火部屋担だろうから、さぞかし家に帰りたがっているであろうと思ったのだが、母談によると、父は今のところそんなに家に帰りたがっているわけではないと聞いて驚愕している。

ちなみに父親が入院したのち母は「まず部屋を片付けた」そうだ。

部屋強火は、大体他の人間を自室に入れず、自分の物を触られるのを極度に嫌がるため「代わりに片付ける」が通用しないのである。

ただ本丸である親父の部屋は手付かずにし、そこから侵食した部分だけ片付けたそうだ。 確かに部屋強火は「部屋が本体」という説もあるので、そこを片付けたら親父急死の恐れがある。

もし私が急に倒れたら私の部屋は保存してもらえるだろうか、むしろ息の根を止めるために速攻で片付けられるかもしれない。