漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

→これまでのお話はこちら


今回のテーマは「お祝い」である。

最近祝うようなことがあったのか、というと私の漫画が賞を取った。

これは「私のキソドルに入っているゴールデンカムイが賞を取った」という意味ではなく、”私の描いた漫画”がである。

最近、と言ってももう1カ月半ぐらい前の話なのだが私はこれを一生言い続けるつもりなので、45日程度で音を上げられては困る。

しかし私は人間関係のほとんどがパソコンの中に収まってしまっているため、リアルでこのお喜びを伝える相手は、同居している夫と、実の母親、という一親等以内にしかいなかった。

ちなみに2人とも「すごいね」とは言っていたが、その作品を読んだ様子はなく、母は「読んでみるわ」と言い残したきり現在まで音信不通である。

とはいえ、ネットの顔も名前も知らないが性癖だけは知っている方々にはたくさん祝ってもらえたし、これから受けるインプラント手術も、賞金が全部消えた上に10万円払うだけで済みそうである。

このように私の人生も良いことがないわけではないのだ。 ただ、それをマイナス10万で相殺してくる出来事が起こるのだが、世の中には負債を積んでいくだけの賽の河原人生もある。

それに比べれば決して悪い人生ではないはずなのに、私が常に暗い事を言うので「何が不満なのだ、贅沢だ」と怒られることがある。

もちろん怒ってくるのは主に壁であり、最近壁が4方向から迫ってくる幻覚を良く見るのだが、実際、決して不幸ではない。むしろ恵まれているぐらいなのに、いつも自分の不幸を嘆き、鳴き声が「何か良いことないかな」な鳥獣を見たことがある人は多いだろう。

おそらくこの鳥獣を「全然太ってないのに『私デブだから』と言って『そんなことないよ』待ち」と同種族、チンパンジーとボノボぐらいの関係と思っている人も多いだろう。

確かにそういう霊長目も存在するのだが、それとはまた別ステージとして、決して不幸やデブではないのに、本気で自分を百貫粘菌だと思っている人間が存在するのである。

まず、デブじゃないのに自分をデブと思っている人間は「痩せている」の基準がチューリップの骨だったりするのだ。人間の身でそこまで痩せるのは不可能なため、永遠に自分のことをケンタッキーフライドデブと思って生きるしかないのだ。

そして、幸せというのは、おそらく、回数や質ではなく「持久力」なのである。

例えたった1回しか良いことがなく、それが幼稚園の時に取った「よくがんばったで賞」だとしても、永遠にその幸せを噛んでいられるなら、割と幸せなのである。

逆に、良いことがそこそこ起こっているはずなのに、あまり幸せを感じられない人間は、良いことを丸のみし、3秒後にはケツから出して下水に流してしまっているのだ。

口に入った一瞬だけは美味いのだが、それがすぐに終わってしまい、その味を思い出すこともできない。

よって常に「次の美味いものはよ」という状態、つまり鳴き声が「何か良いことないかな」 になってしまう。

そんなに次々と良い事ばかりは起きないし、さらに「次はもっと良いこと」を求めてしまっているので「朝開口一番、口角が切れなかった」程度の良い事では幸せを感じられなくなってくる。

このようにして、満腹することなくいつまでも「良いこと」を求めてさまよう餓鬼が爆誕してしまうのだ。

こうなると、どんなに良いことが起こっても本人は自分が幸せとは思えないのである。

逆に「不幸の消化が早い人」は、悪いことが起こっても、そんなに自分を不幸とは思わない。

つまり「不幸な人」というのは、本当に不幸な事ばかり起こる人もいるが「幸せの燃費が極端に悪く、不幸の消化が悪い人」も含まれるのである。

良いことは一瞬でウンコにしてしまうが、悪いことは岩井のレーズンぐらい腹持ちさせてしまうため、体感として良いことが何もなく悪い事ばかり起こっているように感じるのである。

しかし、逆に言えば、過去の良い事をいつまでも反芻できる人というのは他人から見て「自分の吐いたゲロを食っている人」に見えてしまうこともある。

私がいつまでも、取った賞の話をしているのも既にセルフもんじゃ焼きになってしまっており、傍から見ればかわいそうな人になってしまっていると思う。

つまり、過去の栄光にいつまでもすがっている人、向上心のない人と思われるのだ。

逆に現状に満足しないというのは、足るを知らないとも言えるが、常に上を目指していることでもある。

ただこのタイプは、常に良いことを求めてさまよっているならまだ良いのだが、「口を開けてただ突っ立っているだけ」になっていることも多いのだ。