漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

→これまでのお話はこちら


今回のテーマは「テレビゲーム」である。

「テレビゲーム」という言い方自体に加齢臭を感じる人もいるかもしれないが、ホンモノの老はゲームを全て「ファミコン」と呼ぶのだ。

今やゲームと言えば携帯ゲーム機やスマホでやる時代である。もはや「テレビでゲームをする」というのが「電話番号を回す」ぐらい若者にとって不可解な言葉になっているのかもしれない。

「昔は乙女ゲーもテレビでやる時代があり、実家暮らし、自室なしの乙女ゲーマーは家族が寝静まってから乙女ゲーをしていた」という話が「空襲警報が鳴ったら防空壕に逃げる」級のババアの昔話になってしまっている気がする。

ただ、ニソテソドースイッシもテレビにつなげるし、今のところ転売ヤーとの戦闘情報しか目立ったニュースを聞かないPS5も最近発売された。「テレビゲーム」という言葉は「テレクラ」のように主流に戻ることはないが滅びることのない文化として残っていくのかもしれない。

私も久しくテレビではゲームをしていない。

携帯ゲーム機はテレビゲーム機に比べればスペックが低く、アナルの皺まで数えられるでおなじみの美麗グラフィックや複雑なシステムのゲームは出来ないのだが、老になると複雑なシステムは理解できないし、美麗グラフィックには酔うので携帯ゲームぐらいがちょうど良くなってくる。

そして「どこにでも持ち運べる」という点がとてもいい。

これにより「寝るときでさえスマホを握ったっまま寝落ち」という、一瞬たりとも電子機器を手放せない依存症者たちがさらに病(ビョウ)を深めることができるようになった。

しかし、携帯電子機器に向き合いすぎて家族と向き合う時間がなくなり、子どもが「スマホじゃなくて僕を見て」と、果たして子どもがそんなメンヘラ彼女みたいなことを言うだろうか、という注意喚起もよく見るようになった。

だが言わんとすることはわかるので、ぜひ「宝具演出の間だけ家族と向き合う」など、画面外の者とも向き合う時間は大切にしてほしい。

さもなくば私のように「画面しか向き合う相手がいない」という状態に陥ってしまう。

しかし、今は「桃鉄」の対人プレイをしているため、ひたすら種火や謎の玉を集めている時よりはまだ「人とコミュニケーションしている」と言える。

しかし、人狼の時もそうだったが対人ゲームをするたびに「なぜ画面以外向き合う相手がいなくなってしまうのか」ということがわかってきてしまう。

人とコンピューターの違いは「心がある」という点である。

よく「あいつには心がない」と言ったりするが、心なき行動をする人間は心がないわけではないのだ。

心がないことをする奴は「相手に心がある」ということを想像できない奴なのである。

相手を傷つけようとして酷い仕打ちをしてくるわけではない「傷つく心などない」と思っているからやれるのだ。

桃鉄の対人プレイというのは、テクニックや運も大事だが「感情」も大事なのである。

コンピューターであれば、どんな状況でも勝つための行動どんな状況でも勝つための行動をとる。

有り金全部はたいて「うんちカード」を買い、毎ターン日本各地にうんちを置きだしたのも、文字通り「勝利への布石」だったのだろう。

そして妨害をするとしたら、トップの人間相手に行う。

しかし、人間相手の場合、相手が「もう勝ち負けではない、俺はこいつの足を引っ張ることに命をかける」という心境になってしまうことがままあるのだ。

これは所謂「無敵の人」と同じであり、勝敗度外視になった人の行動を合法の範囲で止めるというのはかなり難しい。

よってそういう人のターゲットになってしまったら、追い落とされる可能性が高く、複数人にそう思われたらかなり致命的なのだ。

よって他人を「こいつを殺して俺も死ぬ」というのび太スピリッツにしてしまわない行動が必要になってくる。

しかし私は「こういうことをしたら相手はこれだけ怒る」ということが、想像できないことがよくあるのだ。

よって、軽卒に相手の神経を逆なでする行動をとり、終盤総攻撃を受け、死ぬというパターンがかなり多い。

しかも、人の心には無頓着なくせに、自分の心は人一倍大事にしているため、因果応報による妨害を食らった時でさえ「何故そんなヒドイことをするのか、心がないのか」と本気で怒ってしまったりするのだ。

ゲームでのことならまだ良いが、日常生活でも同じことをしているかと思うとかなりゾッとする。

今私が画面しか向き合う相手がいないのも、自分が画面の外の人間に対し行った行動の因果応報なのだろう。

しかし、何せ「何かした」という意識すらないため、反省もできないのだ。