漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

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今回のテーマは「サイン本」である。

サイン本とは作家が主に己の著書にサインをした本のことである。

なぜそのような、自ら自著をマジックで汚損本にするという自傷行為を行うかというと、それを喜んでくれる読者がいるからである。

もちろん、喜んでくれる読者の幻覚を見ているだけで、本当にただの自傷行為をしているだけの可能性もあるが、逆の立場であれば、好きな作家の本に作家のサインが書いてあるというのは嬉しいことである。

「サイン本」というのは販促活動の1つである。

既知の通り、本というのは昔に比べて圧倒的に売れなくなっており、その割には作品数は増える一方なので、売れる売れない以前に、そういう作品がこの世に存在すると世間に知ってもらうのさえ困難になってきた。

何故そんな難破船にわざわざ乗り続けているのか、と不思議に思うかもしれないが当然「会社勤め」など他の船が全部沈んだからに決まっている。

作家の才能もないが、他の才能はもっとなかったのだ。

世間に大々的に発表されるのは「鬼滅の刃 初版200万部」とか景気の良い数字だけであり、これが普通とは思わないで欲しい。そもそも景気の良い本しか数字は出さないのだ。

私の本の帯に「初版5000部で発売!」と書いたら逆に売れないし、それを見た同業者が暗澹たる気持ちになって、ますます出版業界の景気が落ちる。

そこで出て来る苦肉のフレーズが「好評発売中!」なのだ。

足に自信がある奴しかミニスカを履かないのと同じように、数字を出すのは売れ行き好調な本だけである。

よって、連載が続いて欲しい漫画の単行本の煽りがいつまでたっても「好評発売中」で「重版」という言葉が一向に出てこない時は「好評」などという言葉に安心せず今すぐ10冊ぐらい買いにいった方がいい。

景気の悪い事を書くとさらに売れなくなるという危惧もあるかもしれないが、やはり「好評」とか「絶賛」とか書かれると、読者も安心してしまうのだ。

実際、自身が推している漫画が割と人気だと錯覚し「次回最終回!」という文字を見て目玉が飛び出すという読者は多いような気がする。

「終わる事が発表されてから『好きだったのに』というのはやめてくれ、生きている内に応援しろ、ゾンビ映画じゃねえんだから、死体を鼓舞して生き返ることはほとんどない」という作家の叫びを聞くことは多いと思う。

しかし読者からすれば「死にそうなら早く言えよ」という気持ちも当然あるだろう。

「好調っす!」「絶賛っす!」と言われたら、そっちを信じてしまうに決まっている。

もうどうしようもなく死んでいる場合は、死に華として最後まで「絶好調」の煽りを飾ってもよいかもしれないが「このままだと死ぬが、読者の応援次第ではワンチャンある」という場合はその旨素直に言った方が良いような気がする。

早めに損切りして次回でヒットを狙った方が良い場合もあるが、少なくともまだこれを描きたいと思っているなら恥を忍んで現状を明かした方が良いのではないか。

もちろん恥を晒した上に終わったということも良くあるのだが、作者も読者もやるだけやったというだけ悔いが残らない。

ともかく「面白い作品なら黙っていても売れる」「作家は宣伝に躍起にならず作品作りに専念すべき」という考えはもう古いと思っている。

もちろん、それで売れる作家もいるが、本当に一握りであり、どれだけ面白くても、存在を知られるための宣伝をしなければ埋もれてしまう。

つまり販促活動が昔よりさらに重要になったのだ。

最近は作家自らSNSアカウントを持ち宣伝を推奨する出版社も多い。それは貴様らの仕事だろと思わぬではないが、読者も、誰かわからん大手出版社の固定給野郎共が、テンプレ情報を流すだけだったり、もしくは担当がキャラ立ちしようとしているのが鼻につく「作品公式アカウント」よりも、作者自身のアカウントの方に注目するし、宣伝効果もあるのだ。

「サイン本」もそんな販促活動の1つだが、正直「新規読者獲得効果」はあまりない。

本屋で全く知らない作家のサイン本が売られていてもあまり買おうとは思わないだろう。 サイン本というのは主にその本を既に買う予定の既存読者に向けてのサービスである。

新規読者を得るのも重要だが、すでにいる読者にご愛顧感謝するのも必要な行為である。

むしろ「宣伝になりますから」という何の効果の保証もないタダ仕事より「応援してくれている読者や書店への感謝」というタダ仕事の方がまだやる気になる。

よって私も、新刊を出すたびに依頼があれば感謝のサイン本を描くようにしている。

しかし、一時期感謝が高まりすぎてサイン本が「700冊」になってしまった。

漫画家含むフリーランスはタダ仕事を何より嫌うが、それは全く見ず知らずの奴が「今後あなたのためになりますから」と言って持ってこられるタダ仕事が嫌いなだけである。

すでに世話になっている人への「サービス」をも嫌がっているわけではない。

しかし「限度」はある。

だが安心してほしい、例え700冊タダでサインとイラストを描かされても読者への感謝は尽きることがない。

ただそういう話を持ってくる編集者への憎しみが募るだけなので、これからもサイン本は遠慮なく買って欲しい。

むしろ作家にとって「サイン本がいつまでも売れ残っている」のは何より辛いことである。