国産初のジェット機である三菱リージョナルジェット(MRJ)の初飛行が今春にも実施される予定だ。国産旅客機の開発は約50年ぶりだが、その50年前に開発されたのが初の国産旅客機「YS-11」である。MRJの初飛行の前に、そもそも「YS-11はどんな旅客機だった?」という疑問に答えたい。
全182機生産、一時は国内線を席巻
昭和40年(1965)に当時の日本国内航空(日本エアシステムの前身の1社=後にJALに統合)が羽田~徳島~高知に就航させ、前年の東京オリンピックで聖火を運んで「オリンピア号」と名付けられた同型機もあった。昭和48年(1973)までに全182機が生産され、一時は国内線を席巻するほどだった。
しかし、徐々に時代の波に押されていく。
「騒音」「遅さ」を問題視する時代へ
YS-11はプロペラ機とはいえピストン運動によるレシプロ・エンジンではなく、現在でも幅広く使われているターボプロップ・エンジンだった。タービンの回転運動を利用し、これに減速歯車機構を介してプロペラを回転させ、このプロペラによる推力と排気口から出ていくガスエネルギーによって推力を得るエンジンなのだが、当時は今ほど騒音が抑えられていなかった。つまり騒音の問題視である。
YS-11のスピードはジェット機の約半分で時速約470km。その「遅さ」を利用し、「ポールスター」や「ムーンライト」と名付けられた夜行列車ならぬ「夜行フライト」が運航され、夜の間を機内で寝て過ごしたい多忙なビジネスマンなどに重宝されていたが、夜間に大きな音を立てる旅客機を見逃してくれる世の中ではなくなっていった。
また、その「遅さ」のために、スピードの効率を求める現代の需要にも合わなくなり倍近く時間を節約できるジェット旅客機にとって代わられていった。
警報装置の義務化で瀬戸際に
環境問題と効率が重要視されるようになり、YS-11を民間航空の世界から撤退せざるを得なくしたのが安全性の向上だ。それは、2001年に国内の旅客機にはTCAS(Traffic Alert and Collision Avoidance System=航空機衝突防止警報装置)搭載の義務化である。YS-11にこの装置を載せる改良を加えるのは採算がとれないとの判断がされたのだ。
同型機を製造していた日本航空機製造の経営も芳しくなかった。そして、2006年まで経過期間が設けられたが、同年までに全機が撤退した。海外ではその後も運航が続けられたが、日本の民間航空からは姿を消した。
YS-11は開発当初の正式な読み方は「ワイエスいちいち」、「YS」は同機の育ての親である輸送機設計研究協会から輸送機の「Y」、設計研究協会の「S」の頭文字をとった、なんとも日本的な命名だった。
YS-11の開発から半世紀、いよいよMRJが初飛行を迎えようとしている。その雄姿が楽しみだ。