
ランチアは、1955年にD25と呼ばれるレーシングスポーツを制作して以来、本格的に頂点を狙えるようなレーシングスポーツを作っていない。そして、スポーツカーレースのタイトル争いがCカーによって争われるようになる1983年に投入したマシンが、LC2と呼ばれる本格的なグループCのマシンであった。
【画像】ランチアが投入した本格的なグループCマシン「LC2」(写真12点)
しかしその前年、すなわちまだグループ6によるレーシングカーが出場を許された時代の1982年に、レギュレーションの盲点をついて1.5リッター4気筒ターボを搭載したLC1によって、ランチアは26年ぶりにスポーツカーレースへの本格復帰を果たしている。そんなわけで、翌年から出場できなくなるのを承知で、たった1年だけのために作られたのがLC1であった。
チャンピオンシップタイトルが、グループCのみとなった1983年に向けて、ランチアはまったく新しいマシンの開発に取り組む必要があった。LC1同様、開発の指揮を執ったのはチェザーレ・フィオリオ。そして今度はレギュレーションの盲点を突くことなく、正面から宿敵ポルシェ956/962のライバルとして、立ちはだかることを目的に、開発がすすめられた。
問題となったのはエンジンである。というのもランチアはポルシェと対等に戦える排気量のエンジンを持ち合わせていなかったからだ。そもそも、長い間ランチアがレースの世界から遠ざかった大きな理由は、会社が存続の危機に瀕し、フィアットの傘下に組み入れられたこともある。そんなわけで、フィアットグループ内のエンジンが使えるようになったのだが、とは言っても同じグループとはいえ、個別の会社のエンジンを使用するには了承を得る必要があって、ランチアはフェラーリにエンジンの借用を申し出た。こうして選ばれたのが、フェラーリ308QV用の3リッターV8エンジンであり、エンツォ・フェラーリがその申し出を了承したというわけだ。
当時のグループCには、排気量の制限はなかったものの、それ以上に大きな問題として燃料使用の制限があり、1レースで使える燃料は、1000kmレースの場合600リッターに定められ、しかもル・マンなどの耐久レースの場合は、燃料補給の回数が25回以下に定められていた。だから、いくら排気量が無制限とはいえ、燃料消費を考慮すると、その排気量はおおよそ3リッター以下のターボエンジン、ということになったようである。因みに燃料消費1.6L/kmという基準が定められたのは、ポルシェ956の燃費を参考にしたものだったようだ。
ランチアでは、フェラーリから借用したエンジンの排気量を、2.6リッターに縮小してKKK製のターボを2基装備した。このエンジン開発は、当時フェラーリのレース部門チーフエンジニアであった、ニコラ・マテラッツィに委ねられた。彼は当時、イタリアにおけるターボチャージ・エンジンのスペシャリストで、同時並行的にフェラーリのロードカーF40の開発も行っており、「F40の父」とも呼ばれる人物であった。
排気量が、ライバルであるポルシェに近い2.6リッターとされたのは、その排気量は後々、アメリカのCART用に転用できると考えたからだそうだが、そうなることはなかった。このため、1984年には排気量がもとの3リッターに戻されている。また、エンジンの熟成や調整はアバルトが担当したそうだ。
シャシーはLC1同様にダラーラに任された。エンジンがアルミニウム製モノコックに直接ボルト留めされ、構造部材としての役割も果たしたそうだが、この構造はコーリン・チャップマンが作ったロータス49のシャシーと同じ考えだ。
ノーズにラジエターを持つボディのデザインは、ポルシェとは異なっていた。ワークスでは正式に7台制作され、さらに2台をジャンニ・ムッサートがダラーラに依頼してワークスマシンと同じものを作らせたので、公式にLC2と呼べるマシンは9台存在する。
LC2は83年から実戦投入され、初戦からその速さは見せつけた。初戦となるモンツァでは、予選でポルシェ956を寄せ付けない速さでポールを奪取。その後も瞬発の速さは見せるものの、新規に開発されたピレリのラジアルタイヤのトラブルで、結果を残すことができなかった。
84年シーズンは、前年途中からピレリに変えてダンロップのタイヤを装着したことでサスペンションセッティングが見直され、さらなる熟成が図られると、初戦で見事に表彰台をゲット。その後も速さを見せて実力の片鱗は発揮するものの、安定した強さを見せたポルシェの牙城を崩すことはできなかった。こうして最後のワークス参加となった1986年をもって、マルティにカラーを纏ったLC2はレース活動を終了する。その後はプライベーターのジャンニ・ムッサートが参戦を継続するも、成果をあげることなくLC2はサーキットから去っていくのである。
ロッソビアンコ博物館のLC2は、シャシーナンバー0005。4台目に制作されたワークスマシンで、1984年に完成。その年のル・マンでは、ボブ・ヴォレックのドライブで見事にポールを獲得したマシンである。レースをリードしてトップに立つも、トラブルで最終的には8位となったマシンである。現在はレース可能な状態にレストアされて、クラシックカーレース・イベントに顔を出している。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh