シェルビー・コブラとデイトナ・クーペ|フェラーリに挑んだ最強タッグ

1965年のル・マンではシェルビーGT40は勝てなかった。だがこの特別な2台、すなわち元ダン・ガーニーのデイトナ・クーペとボブ・ボンデュラントのコブラはそのシーズンを通じてフェラーリに挑み、見事タイトルを手にしたのである。

【画像】記念すべき2台、クーペ「CSX2299」とロードスター「CSX2345」の今(写真10点)

「輝かしい実績を持つ名門チームを打ち負かすというのはおこがましいかもしれないが、シリーズポイントでリードしている状況で、アメリカにタイトルを持ち帰ることを狙わなかったらそれは面目が立たない」

これはキャロル・シェルビーが、1964年3月のセブリングでコブラがGTクラスを制した直後に語った言葉である。

ヨーロッパへの挑戦

この結果に意を強くしたフォードは、新型のGTプロトタイプで王者フェラーリに挑戦するいっぽうで、シェルビーに資金を提供して彼らのコブラでヨーロッパ・ラウンドでのガードを固める作戦を取った。目標はGTカーにかけられたFIAの世界マニュファクチュアラーズ・チャンピオンシップである。その前年にフェラーリがあの250GTOで圧倒的な強さで獲得していたタイトルを奪取することだった。

不可能にも見える目標を達成するために、シェルビーは同じクラスにまったく異なる2種類の車の投入を決めた。既に名高いコブラ・ロードスターと、新しい秘密兵器たる斬新な”デイトナ”クーペである。クーペはロードスターと同じシャシーを使用することで、GTクラスに認定されたのである。このクーペが必要とされたのは、ヨーロッパのサーキットではトップスピードが重要だったからである。

「世界タイトルを本気で狙うと決めたならばヨーロッパで戦わなければならない」と1965年にシェルビー・チームのドライバーを務めたアレン・グラントは語る。「向こうのサーキットのストレートはアメリカ国内のどのサーキットよりもずっと長かった。コブラ・ロードスターの最高速は155mph(≒250km/h)程度だったから、我々は”いかしてるレンガ”と呼んでいたほどだ」

そこにピート・ブロックが登場する。アートセンター・カレッジ・オブ・デザインを卒業した(後には同校で教師も務めた)元GMのデザイナーだった。ブロックは、そのためには新たな滑らかなボディが必要だとシェルビーを説得した。英国ACカーズ製で、旧式な横置きリーフスプリングを備えたコブラのシャシーの上にまったく新しいクーペボディを架装しようというのだ。ルールを都合よく解釈して、異なるボディを与えるという手法は当時は許されていた。そもそもはフェラーリが250シャシーを使ってGTOをホモロゲートしたトリックである。

シェルビー・アメリカンにはブロックのアイディアに賛同する者は少なかったが(賛成したのはケン・マイルズとニュージーランド出身のジョン・オールセンぐらいだった)、10週間でボディを作り上げ、テストのためにリヴァーサイド・サーキットに持ち込んだところ、新型クーペはコブラ・ロードスターの最高速をいきなり30mph(≒48km/h)も上回ったという。そればかりでなく、燃費も大幅に向上した。それはすなわち給油のためのピットストップが少なくて済むということで、耐久レースではきわめて重要なメリットである。

フロリダ州のデイトナで派手なデビューを飾ったことから新たに”デイトナ・クーペ”と呼ばれることになったマシンは高速コースで実力を大いに発揮した。しかしながら、シリーズには平均速度の低いサーキットやヒルクライムも含まれていた。そこでフィル・レミントン率いるチームが規則を満たす”FIA”ロードスターを3台製作した。そのロードスターの最高速はそれほどでもなかったが、コーナー脱出の際の加速は驚くほどだった。「コーナーではフレームが歪んでいるようで、内側タイヤは持ち上がってホイールスピンしていた」とグラントは言う。

最初のデイトナ・クーペはシェルビーのロサンゼルス工場で作られたが、その後は何とフェラーリの裏庭とも言えるモデナのカロッツェリア・グランスポルトに製造を委託、シェルビーが送ったシャシーを使ってさらに5台のクーペが製作された。その最初のシャシー(CSX2299)に架装されたボディは、不慣れな職人のミスでウィンドシールド下のカウルが設計図よりも3/4インチ(≒19mm)高くなってしまった。他の5台に比べてルーフラインも高くなったが、このミスは思わぬ結果をもたらした。長身のダン・ガーニー(193cm)でも問題なく座ることができたのである。

ヨーロッパでのレースの序盤は振るわなかったが、ル・マンではチームの士気は大いに上がった。CSX2299に乗ったガーニーとボンデュラントがGTクラスで優勝(総合でも4位)したのである。夏の終わりのグッドウッドでは、その頃には”ガーニーズ・カー”として知られるようになったクーペでガーニーが3位に入り、シリーズポイントを積み上げた。

クーペが高速サーキットで活躍するいっぽう、FIAロードスターはヒルクライムやタイトなサーキットでのレースに参戦した。その中でもCSX2345は1964~65年にかけて7戦に出場して5勝という目覚ましい成績を残した。基本的にFIAコブラは、米国内のUSRRCを戦うコブラと変わりなかったが、細かな部分で違いがあった。たとえばウィンドシールドはコクピット全体をカバーするサイズでなければならず(ただしドライバーが抵抗を減らすために寝かせることができた)、さらにリア・デッキ状にはふたつの突起があった。これはレースカーでも実用性を持たなければならないというル・マン規則の遺物であるFIAの”スーツケース・ルール”を満たすためのものだった。

シーズン終盤にはシェルビーはフェラーリをわずかなポイント差で追い詰めていた。続くレースは高速サーキットで有名なモンツァであり、クーペにとっては願ってもない舞台だったが、レース直前になってエンツォ・フェラーリの横やりが入った。シリーズポイントの合計にはそのレースのポイントを加算しないことになったのである。予定通りにレースは行われたものの、タイトルはフェラーリのものとなった。だがこの顛末はシェルビーの闘志をさらに燃え立たせただけだった。

コブラでの成功のおかげで、シェルビーはそこまで振るわなかったフォードGTプログラムの1965シーズンの指揮を任せられることになった。途端に、デイトナとセブリングの最初の2戦を圧倒、GTはプロトタイプクラスで、クーペはGTクラスを制した。またセブリングでアラン・マン・レーシングとヨーロッパでのコブラのレースに関する契約を結んだ。アラン・マン・レーシングは6台のクーペに加えてFIAロードスターCSX2345の運営を委ねられた。

モンツァではマンが準備したクーペがクラス1-2フィニッシュ、続くツーリスト・トロフィーではジャック・シアーズがクーペCSX2299に、サー・ジョン・ウィットモアがロードスターのCSX2345に乗ってバックアップを務めることになった。シアーズは予選で最速だったものの、決勝第1レースのスタート直前にメカニカルトラブルに見舞われて、すべての期待はロードスターに集まった。ウィットモアは全力で臨んだもののハンドリングにトラブルを抱えてフェラーリGTOには及ばなかった。第2レースでは、シアーズは総合優勝の望みは消えたものの、何度もファステストタイムを記録しながらGTクラスをリード、ウィットモアも最高のレースを見せてGTクラス優勝、総合でも4位に入賞した。

スパではクーペがGTOと接戦を繰り広げたあげくわずかに及ばなかったが、依然としてコブラは選手権をリードしていた。続くニュルブルクリンクでは、レースの模様をデニス・ジェンキンソンが『MotorSport』誌にこうリポートしている。

「2台のクーペは雷鳴のような轟音を轟かせながら、逞しい蒸気機関車のように、時間通りにピットに戻って給油とドライバー交代を行い、最終的に総合7位と10位に入り、GTクラスでは一度もトップを譲らず優勝した。中でもボンデュラントは目覚ましいレースを見せた」

その2週間後、6月の第1週に行われたドイツのロスフェルド・ヒルクライムにボンデュラントはCSX2345で出場、初めてのコースに3日前に到着し、レンタカーで下見しただけだったにもかかわらず、GTクラスを制した。この時点でシェルビーの選手権ポイントは80.9、対するフェラーリは34.7だった。

1965年のル・マン24時間レース

そして1965年のル・マン24時間レースを迎える。フォードの期待は破裂しそうなほどに膨らんでいた。GT40は既にその実力を十分に見せつけていた上に、さらに 2台のGT40Mk.Ⅱ(427エンジン搭載)を投入、フォードは6台のGT40、5台のデイトナ・クーペという計11台の大軍団でル・マンに臨んだのである。米国の3大放送局のひとつABCは、このレースの生中継を準備していた。スポーツイベントとしては米国外では初の人工衛星を使用した生中継であった。

しかしながら運命の女神は別の考えを持っていた。何よりも多すぎるマシンを出場させたことでシェルビー・アメリカンの補給線は伸びきっていたのだ。レースの序盤は期待通りMk.Ⅱとガーニーのクーペが速さを見せたが、最後にはたった1台のクーペを除くすべてのフォード車は姿を消していた。生き残った一台とはジャック・シアーズとディック・トンプソンが乗り込んだガーニーズ・カー(CSX2299/前年にクラス優勝)だった。そのCSX2299も油圧トラブルに苦しみ、総合8位、GTクラス3位に入るのがやっとという有様だった。

それでもシェルビーはGT選手権のポイントで大きくリードしており、アメリカにタイトルを持ち帰ることはほぼ確実を思われていた。7月4日(偶然にもアメリカ独立記念日)、ランスでのレースにアラン・マンのデイトナ・クーペで出場したボンデュラントにその役目が託された。ボンデュラントはもちろん、それまでの2年間にわたってタイトル獲得のために戦ってきたジョン・オールセンやジョン・コリンズ、フィル・レミントンなどのシェルビー・チーム主要メンバーの中で、現地でボンデュラントと栄光の瞬間をともにしたのはチャーリー・アガピオウだけだった。

今も一緒に

今、クーペ「CSX2299」とロードスター「CSX2345」は、シェルビー・アメリカン・コレクションの同じ部屋に並んで展示されている。とりわけロードスターはその抜群の保存状態で知られている。「自分の眼でどれほどオリジナルに保たれているかを見てほしい」と言うのはコレクションの総支配人であるスティーブ・フォークだ。「この車はボンデュラントが1965年に使っていたタイヤをそのまま履いている。ボンネットの裏側には、289エンジンに慣れていなかった英国人メカニックのために点火順序が記されている」CSX2345は2012年のペブルビーチで戦後プリザベーションクラスのウィナーに輝いている。

いっぽうクーペのほうは、入念にレストアを受け、ピート・ブロック自身のお墨付きももらっている。すべてのクーペの中でもこの車のレース・ヒストリーは特別だ。三大耐久レース、すなわちル・マン、デイトナ、セブリングのすべてでクラス優勝を獲得しているのだ。最初のオーナーは「コブラ・フェラーリ・ウォーズ」の著者であるマイケル・ショーンだった。フォークによれば、「我々はその後、当時エージェントを務めていたハーレイ・クラクストンの助けを借りて入手することができた」という。「オーナーはこの車にずいぶんと注ぎ込んでいたから売却に当たって気持ちがころころ変わったんだが、最後にはコレクションに加えることができた」

この記念すべき2台が戦いを繰り広げた1965年シーズンは、次の戦いを予示するものだった。翌年から続くフォードGT40によるシェルビー・チームの活躍と米国マニュファクチュアラーによる国際レースの席巻はモータースポーツの歴史に残る金字塔になったのである。それでも、1965年シーズンは彼らが成し遂げた功績によって特別なものとなった。技術革新とチャレンジングスピリット、戦略的思考、ヨーロッパでの各レースに最適化した準備、これらすべてがワールドチャンピオンシップを目指すチームのお手本となったのである。

編集翻訳:高平高輝 Transcreation:Koki TAKAHIRA

Words:Harry Hurst Photography:Evan Klein