
老練なドラム奏者であるピーター・ボイタは、ロンドンの渋滞の中でドラムセットを運ぶのに相応しい移動手段を必要としていた。かくして始まったのが1970年式ポルシェ911Tスポルトマチックのレストアである。
【画像】レストア途中の911Tスポルトマチックと現在の姿(写真13点)
「この1970年式ポルシェ911Tスポルトマチックを手に入れたのは、ドラムキット一式を積み込めるからです。バスドラムは助手席に、スタンド類やハードウェアはフロントトランクに、そしてシンバル、スネアドラム、トムトム類はすべて前席後方のスペースに収まります…」と、オーナーでセッションドラマーのピーター・ボイタは語る。
「実は、くたびれた状態の2.2リッターを19年前に購入する以前にも、ポルシェに乗っていました。以前は1989年911の3.2カレラ・タルガで、ほぼ毎晩ロンドン市内へ乗り入れ、賑やかなシャフツベリー・アベニューを北上して、最初はパレス・シアターへ、その後クイーンズ・シアターへと通っていました。そこでドラムとパーカッションを演奏しながら、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のオーケストラを取り仕切っていました。なんと開幕初日から、25年間もです。3.2カレラは素晴らしいスポーツカーでしたが、ロンドンの渋滞の中では重いクラッチが苦痛でした。そこでスポルトマチックという選択肢が思い浮かんだのです。”クラッチレス”のギアシフトなら、ドラム演奏で酷使する左脚の負担を減らすことができ、毎晩完璧な演奏ができる、と」
ピーターは生粋のクラシックカー愛好家で、本誌『Octane』にも何度か登場している。直近では完璧なコンディションを誇る1984年式ロータス・エスプリターボとともに紹介された。さらに、コンクール・コンディションの1972年ロータス・エラン・スプリント・ドロップヘッドも披露してくれた。この車は2025年にブレナム・パレスで開催されたサロン・プリヴェコンクールへの出展車両で、「ウィンド・イン・ザ・ヘア」クラスにて高い評価を得た一台だ。
アーバン・ポルシェを求めて
写真を見れば一目瞭然だが、ピーターの911はポルシェ純正ファクトリー仕様を忠実に再現した、非の打ちどころのない仕上がりだ。ボディはシルバーメタリック(ペイントコード 8080-H)で塗装され、インテリアはブラックで統一。定番中の定番、ブラック&ホワイトの千鳥格子(正式名称「ペピータ」)の布シート、それに合わせたラゲッジを備える。フロアマットはポルシェ通にはお馴染みのCocoブランドで、アメリカから取り寄せた逸品である。足元には今やポルシェファン垂涎の的となっている14インチの純正フックス製アルミホイールを装着し、”当時”を偲ばせるミシュラン製185タイヤを履く。
ポルシェ・クラブ・グレートブリテンのアーカイブによると、イギリスに輸入されたスポルトマチックはわずか192台に過ぎない。レアな存在ゆえに差別化にもなる。初期のFシリーズ911のオートマチック版と思われがちだが、正確にはそうではない。スポルトマチックは911の4速マニュアルトランスミッション搭載車をベースとしているが、従来のフライホイールに代わってトルクコンバーターが採用されている。そして、ギアを入れたままクリープ走行が可能なためクラッチペダルは存在しない。その代わり、通常の911と見た目の変わらないシフトノブにマイクロスイッチが内蔵されており、シフトノブに手を添えるだけでバキューム式クラッチが切れる仕組みだ。あの何とも個性的なNSU Ro80も、同様のセミオートマチック機構を採用していた。
長いシフトレバーの頂部に付いたシフトノブには、Hパターンで「L(1速)」、「D(2速)」、「D3(3速)」、「D4(4速)」が刻まれており、左側には「P(パーク)」と「R(リバース)」が配置されている(編集部付記:縦3列式Hゲートの左上がP、その下がR、中央列上がL、その下がD、右列上がD3、その下がD4)。
操作はいたってシンプルだ。エンジンを始動させた状態で左足を邪魔にならない場所に退け、シフトレバーを必要なスロットに入れ、ブレーキペダルを離してアクセルペダルをひと踏みすれば、それだけで走り出せる。
市街地走行ではDで発進でき、郊外路ではD4までシフトアップする。オートマチックトランスミッションではなく、セミATであるから速度に応じたギアチェンジは欠かせない(やや面倒に聞こえるかもしれないが、ドラム奏者が労わりたい左脚のことを思い出してほしい)。
ポルシェ流スポーツドライビング
ご存知の通り、1960~70年代の911には901型トランスミッションが搭載されており、ドッグレッグ式の1速ギア配置(左手前)とやや長くアバウトなシフトストロークが特徴だった。911の美点とは言い難いが、これだけを理由に「クラッチレス」化に踏み切るほどではなかった。多くの自動車メーカー同様、アメリカはポルシェにとって極めて重要な市場であり、アメリカ人の多くはマニュアル操作よりオートマチックトランスミッションを好んだ。そこでツッフェンハウゼンの技術陣が考え出したのが、「スポルトマチック」という選択肢だった。ドライバーによる操る喜びを残しながら、マニュアルトランスミッションをどうしても受け入れられない層をも満足させる”スポーティ”なオプションとなった。
ピーター・ボイタがスポルトマチックについて丹念に集めた資料の数々には、1971年4月号の『Road & Track』も含まれている。筆者も長年愛読してきた同誌は、『Octane』誌の編集方針にも大きなインスピレーションを与えた媒体である。その号に掲載されたスポルトマチックのロードテストには、こんな一文がある。
「スポルトマチックは、誰も問いかけていなかった問いへの見事な答えと言えるかもしれない。有利な点を挙げるなら、運転の楽しさをほんのわずかしか損なわないこと。いや、まったく損なわないとさえ言えるかもしれない。とにもかくにも運転することが楽しい。パフォーマンスと効率においてわずかな低下はあるものの、たいしたことではない」
正直に記すと、筆者はスポルトマチックに対して特別な思い入れがある。幼少期、父の友人が911スポルトマチックに乗っていた。我が家では、”オートマを運転するのはアメリカ人かお母さんだけ”というのが常識であり、オートマのポルシェを選んだ父の友人(ボグダン)をよくからかったものだ。もっとも、彼が豪快なドライブに連れ出してくれるたびに、内心いつも感心させられていたのだが。彼はさらに、チューニングが施された356エンジンを積んだVWビートルも所有していて、私たちがからかうたびに「Id? do Diab?a!」(ポーランド語で「地獄へ行け!」の意)と言う権利は十分にあった。そのボグダンはポーランド人のエンジニアだった。
ロンドン市中でのスポルトマチック
ピーターがこの911Tスポルトマチックを入手した2007年、錆だらけの使い込まれた中古車だったとは今となっては想像し難い。ボディシェルには無数の腐食穴が生じており、新たなパネルを当てて切断・溶接が施された。摩耗した機械部品もすべて新品に交換されている。現在のコンクールコンディションの姿は、長い年月をかけた愛情の結晶とも言うべき作業だった。
緑豊かなサウスロンドンの一角に佇むピーターのタウンハウスの前に停められた911は、小ぶりで非の打ちどころのない仕上がりだ。今日の車が重く、過剰なほど作り込まれているなかにあって、この911は引き締まっていて、純粋で、無駄がなく、有機的でミニマルな佇まいを見せている。
ドライバーサイドのドアをゆっくり開け、そしてまた閉める。思わず、このシンプルな動作を繰り返してしまうのは、初期型911ならではの、ラッチが鋭い「カチャッ」という音と、ドアが閉まる瞬間の完璧なまでの「バチンッ」という響きを味わうために、だ。小ぶりな車でありながら、大きなドアが生み出す乗り込みやすさは格別だ。そしてキャビンは外見からは想像できないほど広々としている。
ピーターの911Tスポルトマチックはスポーツバケットではなく、より使い勝手の良い標準ツーリングタイプのシートを装着している。これが実にうっとりするほど魅力的で、乗り降りのしやすさはもちろん、尻が思わず喜ぶほどのしなやかな弾力をもたらしてくれる。そもそもインテリアは恰幅あるドイツ人2名乗車が想定されて設計されており、後部座席には小柄な子供が2名座れるスペースも確保されている。ドラムキット一式の積み込みはもちろん、近所の花屋やワイン商への買い物にも重宝するとピーターが太鼓判を押す、実に懐の深い一台なのだ。
車内に乗り込めば、あの定番の黒いレザーリムのステアリングホイールが出迎える(より小さくスポーティなものに交換してしまうオーナーが多いが)。正面に鎮座するVDOのタコメーターは6500rpmにレッドラインが設定され、5連メーターの中央に位置する。自動車デザインの歴史において最もアイコニックな一品と言っても過言ではない。ただ眺めるだけで、赤い針を6000rpmまで一気に振り切りたい衝動が込み上げてくる。
なお、911Tスポルトマチックの「T」はツーリングを意味するグレードで、2.2リッターの水平対向6気筒はゼニス製キャブレターを装備し、混雑した市街地での扱いやすさを重視した控えめな最高出力125bhpを発生する。このほか、最高出力155bhpの「E」グレードも用意されていた。ドイツ語で燃料噴射を意味する「Einspritzung(アインシュプリッツング)」の頭文字であり、ボッシュ製燃料噴射装置を搭載していた。そして最高出力180bhpを誇る「S」(スーパーの略)もラインナップされていた。
美しくレストアされた(そしてオリジナルの)キャブレターに燃料を送り込むべく、アクセルペダルを数回あおってからキーを回すと、エンジンが力強く目覚める。リアバンパーの下には怪しいほど大きなエグゾーストが突き出している。空冷エンジン独特なメカニカルサウンドが、マグネシウム製エンジンケースと排気管の双方から鋭く弾け出してくる。6つのチョークを備えたキャブレターもこのメカニカルなシンフォニーに彩りを添え、シートを介して文字通り”肌で感じる”ことができる。
アイドリング回転数は、トルクコンバーターの特性に合わせて意図的に高めに設定されている。ブレーキペダルをしっかり踏み、少々緊張しながらギアレバーを握ってDへと入れる。ショックのひとつや不快なギア鳴き音くらいは覚悟していたが、シフトレバーは何事もなくあっさりと収まった。ブレーキペダルを離してアクセルをそっと踏むと、車重わずか1040kg(MT仕様より25kgしか重くない)の軽量ポルシェは、洗練されたトルクコンバーターが駆動力の繋がりを穏やかに吸収してくれるおかげで、すんなりと走り出す。トルクコンバーター特有のスリップ感は感触と音でわずかに伝わってくるが、エンジンはそれを物ともせず力強く加速していく。
今回の試乗は、あえてピーターが日常的に走るロンドンの市街地で行うことにした。走り出した途端に明らかだったのは、この”クラッチレス”トランスミッションが目まぐるしい市街地走行で本領を発揮するということ。信号や交差点での発進・停止も朝飯前で、速度を落としてブレーキをかけるだけでいい。クラッチを踏む必要もなければ、ニュートラルにギアシフトする必要もない。
スムーズに流れる道路でギアシフトをあれこれ試してみると、精密さとしっかりとした手応えに思わず驚かされる。半世紀以上前に設計されたセミATなのに”さすが911”と言いたくなる。ポルシェはスポルトマチックの性能に絶大な自信を持っており、1967年にはニュルブルクリンクで開催された過酷な84時間レース「マラソン・ド・ラ・ルート」にスポルトマチック搭載車をエントリーさせ、あっさりと優勝してしまった。さらに1968年のル・マン出場車両にもスポルトマチックがラインナップに名を連ね、GTクラスでの優勝を果たしている。
やがて911Tスポルトマチックとの”対話”が進むにつれ、高回転まで回ることで知られる2.2リッターを思い切り解き放ちたい衝動に抗えなくなってくる。ピーターから左足はしまっておくよう言われていた。だが身体の記憶とは厄介なもので、ポルシェが気持ちよく回転を上げていくにつれクラッチペダルを踏み込みそうになっていた。そのとき、あの『Road& Track』誌の記事の別のくだりが頭に浮かんだ。
「存在しないクラッチペダルをとっさに踏んでしまうという一度の失敗を経れば、手だけでシフトチェンジする習慣はすぐに身につく」とのレポート通りになってしまった。
ピーターの案内でダルウィッチの美しい街並みを抜け、911Tスポルトマチックのレストアや整備を担ってきた地元のガレージへと立ち寄る。てっきりピカピカのポルシェ専門工場を想像していたのだが実際に車を乗り入れてみると、まるで映画のセットさながら趣あるビクトリア朝の建物が時を刻む空間が広がっていた。サウス・サーキュラーのほど近くに佇むトンプソン・ガレージは、1924年創業でありながらあまり知られていない老舗だ。現在は六代目の家族経営としてブルースとオリー・トンプソン親子が切り盛りしている。店内には、ヴィンテージのベントレー、ジャガー、ロールス・ロイスなどが所狭しと並ぶ。
走り続けるにつれて自信が深まり、この個性的な車がいかにあらゆる点で純粋な初期型911であるかに気づかされる。荒れた路面を難なくいなし、引き締まっていながらしなやかなさをも感じさせる足回り。正確な操作感と優れた視界を備えた小柄な車体、高い制動力をもたらしながらもコントロールしやすいブレーキ。そしてバウハウスを思わせるボディワークに包まれながら、自動車史上最高のエンジンのひとつが奏でるチェーンソーさながらのサウンドとともに、すべてがひとつのパッケージとして結実している。列挙したすべての要素を、クラッチを踏んだり離したりする煩わしさなしに味わえる。都会派ヒップスターにとってはまさに理想の組み合わせだろう。早い話、市街地でも余裕を持って走れるばかりかレースで勝てる911なのだ。
賛辞のフィナーレはドラムロールで締めくくろう、腕利きのドラマーがちょうど隣にいるから…
編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)
Words:RobertCoucher Photography:Paul Harmer
THANKS TO the owner, to Giuliano Silli, the Fruafamily archivist Roberto Rigoli, Stefan Dierkesand Philippe Murari