
モネ家の自動車が遺した美術館で、アルプスの画家に出会う
パリ16区、ルイ=ボワイイ通り2番地。ラヌラグの庭に面したこの邸宅は、もとはヴァルミー公爵家のために1860年代に建てられた狩猟用パヴィリオンだった。いまその地下に、世界最大のクロード・モネ・コレクションが収まっている。
【画像】最晩年の「睡蓮」をはじめ多くの作品を所蔵する、ミシェル・モネの遺贈を収めるために開かれたマルモッタン・モネ美術館(写真18点)
僕がこの美術館を訪ねたのは、ジョヴァンニ・セガンティーニ展を見るためだった。だが結果として、まったく別の話を持ち帰ることになった。それは一台のパナールと、一台のドラージュの話である。
船を降りた画家
1900年12月、クロード・モネはパナール・ルヴァッソールを買った。60歳になる年である。
それまでのモネの移動手段は船だった。セーヌにアトリエ舟を浮かべ、水の上から岸を眺め、光の変化を待つ。印象派の代名詞のような制作方法だが、裏を返せば、彼が描けるのは舟の届く範囲でしかなかった。
自動車はその制約を取り払った。翌1901年、モネはほぼ毎日午後になると、家族や友人を乗せてヴェトゥイユへ向かっている。運転手付きの、当時の四輪でもっとも速い機械だった。あの年に集中的に描かれたヴェトゥイユ連作は、パナールがなければ生まれていない。
パナール・ルヴァッソールの顧客名簿は壮観だ。ルイ・パスツール、ギュスターヴ・エッフェル、イタリア国王、ベルギー国王。そしてチャールズ・ロールズ。ロイスと組む前の彼は、パナールを英国に輸入して売っていた。その並びにクロード・モネの名がある。
もっとも、モネと機械の関係はこの日に始まったわけではない。
1875年の『雪のなかの列車、機関車』。普仏戦争を逃れてロンドンに亡命したのち、モネは1871年から1877年までアルジャントゥイユに住んだ。この町とパリをわずか20分で結ぶ鉄道が、彼に新しい主題を与える。雪の駅に入ってくる機関車の黒い塊、噴き上がる煙、そして赤を一筆添えて灯された2つの前照灯。
2年後の1877年、モネはサン=ラザール駅を主題に12点の連作を描く。単一の主題に集中した、彼にとって最初の連作である。マルモッタン所蔵の一点で、彼は高架橋の下、線路と同じ高さにイーゼルを立てた。画面を斜めに切り裂く鉄の構造体。1863年に架けられたこのヨーロッパ橋は、いまはもう存在しない。
線路の高さから機械を見上げていた男が、25年後、自らハンドルの側へ移った。それがパナールだった。
りんご色の緑に、赤い革
父の遺伝は絵にはいかなかった。次男ミシェル・モネに受け継がれたのは、機械のほうだった。
1883年、モネは5歳の次男を描いている。青いセーターを着て、まだ何者でもない顔でこちらを見ている子どもだ。
長じたミシェルは、戦前にはドライエに乗っていた。車体はりんご色の緑、クッションは赤い革。のちにドラージュへ乗り換えるが、色の組み合わせは変えなかった。やはりりんご色の緑に、赤いクッション。そしてこのドラージュに、彼は行きつけのガレージでドライエのエンジンを積ませている。1930年代のフランスで、である。
彼を知る人の証言によれば、ゴルフパンツにキャスケットという出立ちの、たいそう洒落た男だったという。その優雅さの下に、確かな機械の勘が同居していた。
人生の大半はアフリカでの狩猟に費やされた。金が要るたびに父の絵を手放し、それでも手元にはおびただしい数の作品が残った。父の家であるジヴェルニーにはほとんど住まず、ウール=エ=ロワール県ソレル=ムセルの「レ・ブロンドー」という自邸を好んだ。額装もされず、ニスも塗られないまま、絵はその家の壁と部屋を埋めていた。
クレマンソー橋
1964年に妻ガブリエルを亡くしてから、ミシェルは毎週ジヴェルニーの墓へ通うようになる。
1966年2月2日も、その帰り道だった。ヴェルノンのクレマンソー橋を渡り切ったところで、彼の車はトラックと正面から衝突する。ミシェル・モネはその夜のうちに息を引き取った。87歳。88歳の誕生日まで、あと1か月あまりだった。事故を捜査した警察の報告書には、その地点に速度規制はなかった、と記されている。
子はなく、兄ジャンは1914年にすでに世を去っていた。単独の相続人であったミシェルは、アカデミー・デ・ボザールを包括受遺者に指定していた。ジヴェルニーの家と庭はアンスティチュ・ド・フランスへ、そして父の絵をはじめとするコレクションはマルモッタン美術館へ。
同年2月26日、公証人がソレル=ムセルの家の封印を解く。県知事、代議士、村長、アカデミーの関係者、そしてテレビカメラの前で扉が開かれた。もっとも大きな部屋だけで91点。うち48点がクロード・モネだった。ほかにベルト・モリゾ、マネ、ブーダン、シニャック、カイユボット、ヨンキント、メアリー・カサット、ルノワール。誰も、そこに何があるのか正確には知らなかった。
地下の展示室。ミシェル・モネの遺贈を収めるため、建築家ジャック・カルリュの設計で庭の下に穿たれ、1971年に開かれた。
遺贈されたのは油彩80点、パステル4点。その規模に対して、邸宅の庭の下におよそ200平方メートルの空間が新たに穿たれた。設計は建築家ジャック・カルリュ。1971年に開かれたこの地下室が、いまも人で埋まっている。
その一角に『印象、日の出』がある。1872年11月13日の朝、ル・アーヴルのホテルの窓から描かれた霧の港。1874年にキャピュシーヌ大通りで公開された際、批評家ルイ・ルロワがこの題名から「印象派」という語をひねり出した。運動の名は、この一点に由来する。
奥の湾曲した壁を巡るのは、1914年から1926年にかけてジヴェルニーで描かれた最晩年の睡蓮である。遺贈された当時、その多くはほとんど世に知られていなかった。
自動車を愛した男が自動車で死んだ。だからこの部屋がある。
山へ登る展覧会
その美術館が2026年の春から夏にかけて何を見せていたか、という話に戻りたい。
4月29日から8月16日まで開かれた「Giovanni Segantini (1858-1899). Je veux voir mes montagnes」。絵画、パステル、素描およそ60点。フランスで初めてとなる、この画家の本格的な個展である。キュレーションはガブリエッラ・ベッリと、画家の曾孫にあたるディアナ・セガンティーニ。
第一室は「僕、ジョヴァンニ・セガンティーニ」と題され、複数の時期の自画像が並ぶ。1858年、オーストリア領トレンティーノのアルコ生まれ。両親を失い、放浪の廉で逮捕されて少年感化院に入れられ、靴職人の修業をしたのち、異母兄の写真館を手伝った。1874年にミラノへ戻って絵の道を見出している。分割主義という光を分解する技法へ向かう男が、若い頃に光を化学的に定着させる仕事場にいた。
この展覧会の構造が面白い。10の章が、画家の生涯ではなく標高で区切られているのだ。
入口は海抜264メートル、コモ湖に近いプシアーノ。1881年、セガンティーニは伴侶ルイジア・ブガッティとともにこの地へ移り、1883年からは画商ヴィットーレ・グルビシに作品の独占権を譲る代わりに年金を受け取る契約を結んだ。
次いで800メートルのカリオを経て、1207メートルのサヴォニンへ。1886年夏の終わり、彼はスイス、グラウビュンデン州のこの村に居を構える。同年11月、グルビシが訪ねてきて分割主義を伝えた。網膜混合の理論に基づく色彩の科学的分解である。『渡し場のアヴェ・マリア』の第二版は、その成果として描かれた。1882年の第一版と同じ主題を、純色の細い糸を重ねる手法で描き直している。
そして観客は上がり続ける。1815メートルのマローヤ。1894年、負債に追われた画家は標高1800メートルのこの峠に移り、サンモリッツにほど近い山荘に家族と住んだ。
ここで展覧会は、ひとつの事実を淡々と告げる。祖国を持たない芸術家、国籍を失った彼はほとんど旅ができなかった。しかしグルビシ兄弟のおかげで作品は世界中を巡った、と。
セガンティーニは無国籍のまま生涯を終えている。オーストリア領に生まれ、イタリアで活動し、スイスで死んだ。イタリア国籍の取得を試みたが叶わなかった。本人は移動を封じられ、代わりに絵だけが世界を旅していた。
最終室は2837メートル。エンガディンのシャフベルクである。
1900年のパリ万国博覧会に向けて、セガンティーニは巨大なエンガディンのパノラマを構想していた。資金の目処が立たず断念し、代わりに『生』『自然』『死』からなるアルプス三部作へ向かう。
1899年9月、標高2837メートルの現場で中央パネルを描いている最中、厳しい気象条件と疲労のなか、彼は劇症の腹膜炎に襲われた。9月28日、41歳で息を引き取る。自らの山々に向かって、こう言い残したという。Voglio vedere le mie montagne。僕は自分の山が見たい。
それがこの展覧会の題名になった。同じ言葉を掲げて、最終室にはアンゼルム・キーファーの4点が並んでいた。「ジョヴァンニ・セガンティーニのために、オマージュ」と題された、独立した展示である。
二つの移動
セガンティーニは山を自分の足で登った。登って、そこで描き、そこで死んだ。移動そのものが制作であり、生き方であり、最期の場所を決めた。だが彼は国籍を持たず、国境を越えることができなかった。垂直にしか動けなかったのだ。
その2年後、パリでは一人の画家がパナール・ルヴァッソールを注文している。水平の距離を機械で縮め、光を追いかけるために。
高度へ向かった男と、距離を圧縮した男。19世紀末の同じ時代に、まったく違う方向へ動き続けた二人の絵が、いま同じ屋根の下にある。片方は自動車が運んできたコレクションとして。もう片方は、その自動車が生んだ美術館に招かれた客として。
死の床でセガンティーニが望んだのは、移動ではなく、ただ見ることだった。モネはそれを、パナールに乗って見に行った。
ラヌラグの静かな通りに面したこの邸宅を出るとき、僕はしばらく、モネの車が停まっていたであろう場所を探していた。
美術館情報
musée Marmottan Monet(マルモッタン・モネ美術館)
2, rue Louis-Boilly, 75016 Paris
Tel. +33 (0)1 44 96 50 33
marmottan.fr
開館:火曜から日曜、10時から18時(最終入館17時)
木曜は21時まで開館(最終入館20時)
展示室は閉館の15分前に閉まる
休館:月曜、1月1日、5月1日、12月25日
料金:一般14ユーロ、割引9ユーロ(18歳未満、25歳未満の学生は要証明)
なお、本稿で紹介したジョヴァンニ・セガンティーニ展は2026年8月16日をもって閉幕している。常設のクロード・モネ・コレクション、ベルト・モリゾ・コレクション、ヴィルデンステイン・コレクションの装飾写本は通年公開。次の企画展は「風景の物語 モネからホックニーへ(1890-2026)」で、2026年9月24日から2027年1月31日まで。モネ没後100年の記念事業の一環である。
写真・文:櫻井朋成 Photography and Words: Tomonari SAKURAI