
ボーズ・オブ・カナダ(Boards of Canada:以下、BoC)が、前作『Tomorrows Harvest』から実に13年ぶりとなるスタジオアルバム『Inferno』を5月29日にリリースする。スコットランド出身のデュオは、後世のポップミュージックにどんな影響をもたらしたのか? ele-king編集長の野田努が解説する。
突如として誕生したサイケデリックな新星
ボーズ・オブ・カナダ(BoC)は、エレクトロニック・ミュージックに分類されるし、まあ、じっさい彼らは電子機材を使って音楽制作をしているわけだが、作品のコンセプト、その音楽から感じられる風景のようなモノを思えば、彼らのレコードはエイフェックス・ツインやスクエアプッシャーの隣に置かれるべきではない。コクトー・ツインズやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインあたりが適切だが、思い切ってピンク・フロイドのファースト・アルバム、ジ・インクレディブル・ストリング・バンドの『The Hangman's Beautiful Daughter』、『ドノヴァンの贈り物/夢の花園より』、ケヴィン・エアーズの『Shooting at the Moon』なんかとも相性が良さそうだ。すなわち、彼らの音楽の核にあるのは、もとはと言えば、田園的あるいは童話的サイケデリアなのである。
本稿では、おもにBoCとは何だったのかをおさらいしたい。
音楽ファンというのは、とくに少しばかりマニアックになってしまうと、”流れ”に沿って聴くものである。Aを好きになったら、シーンの展開に従って起きている”流れ”において次に聴く作品を探す、あるいは、個人的な関心事の”流れ”において次も似たような作品を聴いてみる。まあ、メタルを聴いていた人が次にジョン・ケージに飛ぶということは、不可能ではないが滅多にないだろう。なぜならそこには”流れ”がないからだ。
1990年代にエレクトロニック・ミュージックに夢中になっていたリスナーは、そのデケイドの後半には、次に何を聴いたらいいのか迷っていた。デトロイトの重鎮たちはジャズに向かい、ドラムンベースはダークコアに走った。IDMの巨匠たちはドリルンベースに手を染め、ドイツからはグリッチ/ミニマルが台頭、シカゴからはポストロックの風が吹いた。カタチだけはエレクトロニック・ミュージックの形態をした、けたたましいロックトロニカ(ケミカル・ブラザーズなど)の黄金期でもあったが、それはもう、ダンスフロアともベッドルームとも別の話である。BoCの『Music Has the Right to Children』が渋谷のレコード店に入荷されたのはそんな時代、1998年4月のことだった。
それはもう、真実を言えば、ひっそりと売られていたと言っていいだろう。大きな宣伝のなかでリリースされたIDMの巨匠たちの無邪気なドリルンベース作品とは比較にならない、典型的なアンダーグラウンド・リリースだ。出てからすぐ、イギリスの独立系の音楽メディアで熱狂的なレヴューがわずかにあったものの、レーベルの〈Warp〉も様子見という感じだったし、そもそもこれは〈Skam〉というマンチェスターの小さなレーベルとの合同リリースだった。逆に言えば、SNSなき時代、リスナーが草の根的に支持し、そしてじょじょに評価を高めていった典型的なアルバムだったのである。
こと日本においては、ぼくの記憶では、「ボーズ・オブ・カナダ、良いよね」などとテクノ・ファンのあいだで言い合えるようになるのに、1年は要している。毎週のように輸入盤店を回っているようなロック・ファンのあいだに浸透するのは、21世紀に入ってからだ。配信で聴ける時代ではなかったので、それを知るにはテクノ/クラブ系の輸入盤店で買うしかなかったのである。
もっとも、〈Warp〉がたいしたプロモーションをしなかった理由もわからなくもない。『Music Has〜』は、先ほど説明した”流れ”のなかに居場所をもたない作品だった。喩えるなら、宇宙空間に突如として誕生した新星、異世界から迷い込んで地球に着陸した物体、そんなようなものだ。すなわちBoCとは、あらたな起点だったのである。
ざらついた質感、色褪せた感覚
ゆえにこの音楽は、数年に1枚出るか出ないかの、とんでもない魅力の塊だった。探求心と柔軟な耳を持つDJたちを虜にしていったのも必然だったと言える。面白いのは、日本で『Music Has〜』の楽曲を先んじてプレイしたDJは、DJ KENSEIやdj klockといったヒップホップ系のひとたちだったことだ。BoCの楽曲はテクノやハウスのbpmではないダウンテンポを主とし、そのビートには、DJプレミア以降のミニマリズムとミックスできるほどの強度があった。
とくに人気だったのは「Aquarius」という曲である。断片化したファンクのベースラインを効果的なアクセントにしたこの曲のリズムは、ヒップホップの様式美のなかにもうまく収まる。ぼくはこの曲を、クラブのフロアで覚えたくらいである。とはいえ、「Aquarius」は圧倒的にドリーミーで、ウータン・クランの寒々しい浮遊感よりも、明らかに「Strawberry Fields Forever」のほうが近い。そこにはBoCのサイケデリックな魅力が濃縮されているのである。
そもそも”Aquarius”=”水瓶座”という言葉自体が、1960年代後半のサイケデリック文化に関連している。1967年に初演され、翌68年にメガヒットを記録したロック・ミュージカル『ヘアー』のオープニングを飾るのが「Aquarius」(水瓶座の時代/アクエリアス)”という曲だ。「古い抑圧の時代は終わり、これからは愛と平和の”水瓶座の時代 ”がやってくる」と主張するその曲は、ヒッピー思想の精神的マニフェストそのものだった。BoCの「Aquarius」では、子供のクスクス笑いがミックスされ、変調された声が「オレンジ」という言葉を繰り返す。それが、60年代後半のサイケデリック革命における最強のLSD=通称「オレンジ・サンシャイン」を想起させないと言ったら嘘になるだろう。
もっともこの説明は、あくまでぼくの「読み」に過ぎず、彼らがこうした記号をいかなる意図を持って使っているのかたしかめたわけではない。しかし、こうした曲名や曲中に散りばめられた「暗号」や「ほのめかし」がBoCの十八番であることは、いまとなってはよく知られるところである。また、「BoCの十八番」に関しては、当時としてはじつに独特で、異質だったそのサウンドについて触れておく必要があろう。つまり、「Aquarius」の冒頭で聴ける、磨りガラスのような質感、あの霞がかったサウンドのことだ。
そのざらついた質感、色褪せた感覚は『Music Has〜』のいたるところで聴くことができるし、それ以降のエレクトロニック・ミュージックにおいてはひとつの定番めいた響きとして広まっている。こうした音響的な質感をエレクトロニック・ミュージックにおいてはテクスチュアと呼んでいる(楽曲の構造をテクスチュアと呼ぶクラシック音楽における用途とは意味が違っている)。テクスチュアに注力した点において、BoCは同時代のほかのエレクトロニック・ミュージックと目指すところが違っていた。その当時のエイフェックス・ツインやオウテカ、スクエアプッシャーといったIDMの巨匠たちが競っていたのは、主に構造の複雑さ(ドラム・プログラミング、変拍子など)である。それに対してBoCがやったのは、ビートの構造自体は比較的シンプルで、しかし、その音像の質感を突き詰めるという、真逆のアプローチだった。
ただし、テクスチュアを効果的に使ったサイケデリア、その先駆者としてのBoCの真価が理解されるには、やはり、時間が必要だった。そして、BoC以前にその手の粗い質感をもった音響空間を探していくと、結局は『Loveless』のようなところに行き着くという、これは彼ら自身が公言していることだが、BoCにおけるルーツ的なるものは(エイフェックス・ツインやオウテカと違って)クラブ・ミュージックではないのである。
さて、ここで少しややこしい話をしよう。BoCの急上昇した評価にともない、論客たちを熱くさせたのが、彼らのザラついた音響テクスチュアと『Music Has〜』のジャケットに敷かれた昔の家族写真からも感じられる、色褪せた感覚だった。ノスタルジー? いや、ところが単純にそう呼ぶには少々不気味なのだ。写真のなかの家族の表情は消されている。だいたいその音楽から、過去を懐かしんでいるような牧歌性も感じない。『不思議の国のアリス』において、登場キャラクターたちが「あぁ、あの頃は良かった」と過去を懐かしむ場面がほとんどないように。
アリスの世界の多くは、目の前で起きている不条理な出来事に満ちている。BoCの作品を特徴付けるのも、超現実感である。が、それはより不気味な感覚をともなっている。表情が消された家族写真、それは記憶のバグと言えそうな何かで、『Music Has〜』において立ち上がる世界は、そのバグに浸食されている奇妙な光景なのだ。亡きモノたちが”現在”を腐食すること──その感覚を、いちぶの批評家たちは「ホーントロジー」と呼んだ。日本語では「憑在論」などと訳されているが、言うなれば「幽霊学」である。「失われた過去の幽霊に現在がとり憑かれている状態」、それは「未来を夢見れなくなった現在」を説明するうえでの暗喩にもなる。
まあ、この話はここまで。ひとつおぼえておいて欲しいのは、こうした世界の見方を論じるうえでのヒントまで、『Music Has〜』というアルバムは与えてしまったということである。
21世紀に受け継がれていった「幽霊学」
『Music Has the Right to Children』──直訳すれば「音楽は子供たちに権利を持つ」。本来であれば、主語が逆で、「子供たちには音楽を享受する権利がある」という意味であろう。あるいは、「音楽は子供たちにこそ届くべき権利を持っている」とも取れるし、「音楽は子供たちを呼びよせる」というちょっと恐いニュアンスにも解釈できる。
東京で、「Aquarius」に次いでヒットした曲は、1999年の12インチ・シングル盤に収録された「Happy Cycling」だった。これもビートが鮮明で、DJがミックスしやすい。その年はビョークが全面的にIDM(エレクトロニカ)を試みたシングル曲「All Is Full of Love」が話題になり、レディオヘッドがこの手のサウンドに影響を受けていた頃でもあった。『Kid A』が世に出たとき、取材においてトム・ヨークがその影響源にオウテカやエイフェックス・ツインの名を挙げた話は有名だが、しかし『Kid A』や『Amnesiac』のサウンドにより強く働きかけたのは、IDMの巨匠たちの複雑なリズムというよりは、音響テクスチュアを駆使するBoC作品のほうではないのかというサイモン・レイノルズの意見に一票入れたい。
じつのところ、21世紀に入ってからBoCの影響は、他の音楽作品にもリスニング文化にも広範囲に渡って見受けられるようになる。ぼくのようなテクノ・リスナーがアニマル・コレクティヴやフリー・フォークにいち早く反応したのも、『Music Has〜』を熱心に聴いたことが影響していたと思う。
BoCが耕した土壌から生まれたサブジャンルもいろいろある。ビビオやマウント・キンビー、トロ・イ・モワのようなアーティストの作品はBoCがいなければ違ったモノになっただろうし、初期フォー・テットのフォークトロニカやティコ(Tycho)などは、言うなれば毒を抜いた『Music Has〜』だ。亡霊めいた霞んだ音像に関していえば、実験派のザ・ケアテイカーがヒントにしているし、チルウェイヴやヴェイパーウェイヴにもその「歪んだ記憶の風景」および「幽霊学」は確実に受け継がれている。
評価を決定的なものとし、大いに影響力をほこりながら、彼らはメディアへの露出を極端に嫌い、ほとんど厭世的に、スコットランドの片田舎に籠もって創作を続けている。いまとなってはなかばミステリアスな存在である。だから『Tomorrow's Harvest』(2013年)以来の、13年ぶりとなる通算5枚目のアルバム『Inferno』がリリースされるというニュースは、世界中の音楽ファンにとっては衝撃的で、欧米で騒がれているのも当然のことだと言える。まあなにしろ、この25年間の、ひとつの”流れ”を作ってきた巨星の久しぶりの帰還なのだ。
BoCは、作品ごとに大きく変わることはない。21世紀になってからの、『Geogaddi』以降の作品は、ぼくのなかでは『Music Has〜』という金字塔の、いわば続編に次ぐ続編だと思っている。前作のリリース前には、世界各地のレコード店に突如として謎の12インチ盤(数秒の音声と数字のコードだけが刻まれたもの)をゲリラ配置するようなことをして、ファンによる暗号解読をめぐる議論を噴出させもした。今回は、4月16日に公式チャンネルにて先行トラック「Tape 05」が突如ゲリラ公開され、世界中のファンを興奮させている。
タイトル『Inferno(インフェルノ)』は、一般的には「地獄」や「大火災・業火」を意味する。これまでのBoCの言葉選びからすると、あまりにも直球で、強烈と言える。ただし、その暗号めいた曲名たちと研磨されたテクスチュア、深化した構成力によるBoCサウンドが、リスナーをとんでもない夢幻的な世界に連れていくのはたしかだろう。完成まで、10年以上もかけているのだ。
「地獄を覗き見ようと、天使のように空を舞おうと、 ほんのひとつまみのサイケデリックを摂取すればいい」──これはイギリスの精神科医であるハンフリー・オズモンドが、1956年、作家のオルダス・ハクスリー宛ての手紙に書いた、世界史上初めて”サイケデリック”という造語が用いられたことで有名な一文である。”psyche”とはギリシャ語で「魂・精神」を意味し、”delic”とは「現れる・顕示する」を意味する。結局のところ、『Music Has〜』にしろ『Inferno』にしろ、あるいはほかのアルバムやシングル盤にしろ、重要なのはリスナーみずからの精神から立ち上がる景色であって、その新たな世界の中身がどうであれ、ただそれを確実に見せてしまえることが、BoCがスペシャルな存在でありえている所以なのだ。どうぞお試しあれ。
【関連記事】Boards of Canada『Inferno』──「現実という名の地獄」を描く最新アルバムの全容


『Inferno』のために用意されたイメージカット

ボーズ・オブ・カナダ
『Inferno』
2026年5月29日リリース
Tシャツ付きセットも発売
詳細:https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=15790
