Kings of Convenience決定版インタビュー 「静けさ」を追求するデュオ、全アルバムと25年の歩みを振り返る

キングス・オブ・コンビニエンス(Kings of Convenience)のジャパンツアーが、7月6日(月)東京・Zepp DiverCity (TOKYO)、7月7日(火)大阪・梅田CLUB QUATTROにて開催される。実に16年ぶりの来日を前に、貴重なインタビューが実現。聞き手は、彼らの国内盤ライナーノーツを手がけたこともある音楽ライター・坂本麻里子。

グランジ、オルタナ、ニューメタル等、90年代のダイナミックなギター・ロックの人気再燃が続いている。しかし当時を振り返ると、群雄割拠な熱い季節の初期衝動が落ち着くと共に、90年代後半から00年代初期にかけてシーン各所でチルな揺り返しも起こり始めていた──より内向的でパーソナル、アコースティックな抒情に満ちた「等身大の歌」の台頭だ。

山とフィヨルドに囲まれたノルウェー第二の都市:ベルゲン生まれのアイリック・ボーとアーランド・オイエが結成したアコースティック・デュオ、キングス・オブ・コンビニエンス(以下、KOC)は、そんな新波を感じさせるアクトのひとつだった。1stアルバムのタイトルはいみじくも『Quiet is the New Loud(静けさこそ新たなラウドさ)』。いわゆる「ラウドネス・ウォー」(アテンションを即座に奪うべく、過剰にコンプをかけた音源の是非論)が盛んだったのもこの時期だが、その論争には耳への負担で消耗させられた聴き手の集団無意識も反映されていたと思う。繊細なフィンガー・ピッキングで織り成すKOCの円環型の美しいララバイの数々は、小さなミラクルのように心に浸透した。

アルバム・デビューから25年に当たる節目の今年、実に16年ぶりの来日が決定した。この悦ばしい時機に合わせ、アイリックにKOCの歩みを振り返ってもらうことができた。アーランドは多彩なソロ活動を繰り広げてきたものの、両者はこれまで4枚しかアルバムを発表していない。だがそれは基本的に声/和声とギターだけの、ごまかしのきかない澄んだサウンドと美学を妥協なしに掘り下げ、磨き上げてきたからだ。粒よりのエバーグリーンな楽曲を、ぜひ来日公演で実体験していただきたいと思います。

デビュー前夜:「コンビニエンス」がもたらした成功 

―1997年頃からあなたとアーランドはKOCとして曲を書き始めたようですね。30年近いパートナーシップになりますが、そもそもの出会いは学校?

アイリック:そう、1991年に出会った。15〜16歳頃の秋にギターを手に入れたばかりで……と言ってもふたりともまだ全然弾けなかったんだけど、どちらもギターを持っていたのが知り合うきっかけだった。学校には音楽学生向けの特別な授業があってね。僕たちはそのクラスに参加していなかったものの、才能に恵まれた彼らの姿を見ていて、才能も技術もなかった僕たちはとても感心させられたし、うらやましく思った。ギターを持ってるくせに弾けないのは自分たちだけだと気づいて、アーランドが「君の家に行ってもいい? 一緒にギターを弾こうよ」と持ちかけてきた。というわけである日彼はギターを手に、バスに乗って郊外にあった僕の家までやって来たんだ。お互いにコードをひとつずつ憶えて、その日のうちに初めて一緒に曲を書いた。と言っても、学校の体育教師をネタにしたふざけた歌だったけど(笑)。

―(笑)。おふたりが最初に参加したバンドはSkog(スクーグ:森の意味)かと思います。1996年にリリースされたEP(『Tom Tids Tale』)はザ・キュアー/ジョイ・ディヴィジョンなポストパンク・グルーヴ、レディオヘッドを彷彿させるオルタナなギター、かと思えばプログレ・フォーク味も混じった混沌としたサウンドで驚きました。当時はまだ自分たちの「声/個性」を探っていた、いわば実験期だったのかな、と。

アイリック:確かにゴチャゴチャだった(苦笑)。だけど、あれはすごく可笑しかったんだ。ユーモラスな面もあったと言うのかな、アーランドは笑える曲をたくさん書いていたし、対して僕は真面目にしたいっていう傾向があって、だからすごく笑えると同時にシリアスでもあったっていう。

―かなりダークな響きの音楽ですが、その翌年にあなたとアーランドは打って変わってアコースティック・デュオを組みます。なぜこの「転生」が起こったのでしょう?

アイリック:手っ取り早く言うと、僕たちのドラマー、そしてもうひとりのギタリストがバンドを抜けたから(笑)。ドラマーはスキー/スノボ/ロッククライミングが大好きなジャーナリストで、後にスキーとロッククライミングの雑誌を創刊した。ギタリストの方は、当時は兵役義務があったから軍隊に1年加入してね。で、残された僕とアーランドでKOCを組むことにしたわけ。

―ユニット名の由来を教えてもらえますか?

アイリック:候補はいくつもあったけど、キャッチーになるだろうから頭韻を踏みたかった。頭韻を踏んだバンド名は、オーディエンスもその名前を声に出して言うのが楽しいからさ。「コンビニエンス」は、僕たちから見た日常生活や社会の様子を指している。どういうわけかみんな、「便利/簡便」に執着しているじゃない? 今は尚更そうだけど、あの当時からもう、いわば人生哲学としての「便利さへの依存」は始まっていたし、僕たちはその様に当惑させられたっていうか。だから、社会に対する軽い批判的な観察から発していたし、と同時に僕たちのバンドの形容にもなっていると思ったんだよね、アコギ2本でバンドをやるのはとても便利で小回りが効くから(笑)。どこででも、それこそカウチに座ってでもプレイできる。ほんと、このバンドの初期の成功はそこに依っていたな。色々なパーティやイベント、誰かの家に顔を出しては、その場で自分たちの音楽を聴いてもらえた。アコギ2本さえあれば演奏できたし、アンプなど他のPA機材も必要なし。このバンドのセットアップ自体、かなり便利だと気づいたし、僕たちがロンドンで最初のレコード契約を獲得できたのもそのおかげだった。レコード会社のHQに出向いて、「僕たちの音楽を聴いてもらえます? アコギだけだからその場で演奏しますよ」と。当時はアコギしか使わないインディ・バンドはかなり珍しくてね。だからレコード会社のオフィスでパフォーマンスできたし、おかげでバンドに対するちょっとした熱気も生まれたんだ。

2001年のライブ写真:左からアーランド・オイエ、アイリック・ボー(Photo by Hayley Madden/Redferns)

―KOCは最初から英詞で歌を書いています。おふたりが子供だった頃にフラ・リッポ・リッピ、a-haといったノルウェーのバンドが英詞曲で国際的ヒットを達成したのも、自然に「英語で書こう」という姿勢に影響したでしょうか?

アイリック:英語で歌われる音楽文化にどっぷり浸かって育ったし、僕は4〜5歳頃はビートルズに夢中でね。80〜90年代に聴きながら育った音楽も歌詞はすべて英語だった。だから、僕たちは文化的に言えばやや混乱していたんだろうね──「自分たちはこのインターナショナルな、グローバルな英語圏音楽の世界に属している」と思っていたから。もちろん、さっき話に出た最初のバンドのSkogではノルウェー語で歌ったけど、15、16、17歳くらいのキッズにしてみれば、母国語で歌うのはごく当たり前の話だったんだろうな(苦笑)。

でも、英語で歌い始めた主な理由は、僕にも歌えるのが分かったから。最初のうちシンガーはアーランドだけだったんだけど、そのうち僕も歌えると分かって、そこでハーモニー歌唱をやってみることにしたんだ。ところが、僕たちは同じノルウェーでも異なる地方言語の話し手でね。アーランドはノルウェー東部語で話すし、僕は西部語を話す。そのふたつにはかなり差があるから、僕たちはノルウェー語だと一緒に歌えないんだ。ふたりの人間がそれぞれ異なる独特の地方言語でハーモニーを生もうとすると、とても妙な響きになってしまう。で、ある時ジョイ・ディヴィジョンの曲をカバーしたことがあって、僕たちにとってニュートラルな言語の英語でなら一緒に歌えると分かった。ふたりとも同じ響きの言葉で歌うからハーモニーも生み出せる、と。だから実際のところ、英語で歌うようになったのは声を重ねてハモるためだったんだ。で、今やその恩恵に大いに浴しているわけだね、英詞曲のおかげで、僕たちは世界各地を旅することができるんだから。

―KOCのデビュー期にもてはやされた「ベルゲン・ウェイヴ」というタームはメディアの造語であって、その範疇に押し込められたアーティストたちは嫌っているようです。とはいえ、ベルゲンの音楽シーン──あなたたちとも縁深いロイクソップはトロムソ出身とはいえ──でテクノ/エレクトロニカ/ハウス、インディ・ポップ、ブラックメタルと多彩な音楽が盛り上がっていたのは間違いありません。90年代末〜00年代初頭に、なぜノルウェーの若い音楽シーンは活況を呈したのだと思いますか。

アイリック:ひとつ言わせてもらうと、ロイクソップは確かにトロムソ出身だけど、彼らはベルゲンで暮らしていたし、活動拠点はずっとベルゲンだよ。でまあ、90年代初期に、特にエレクトロニック・ミュージックのシーンが盛り上がってね。91〜92年頃の話だけど、ベルゲンは小都市とはいえ、アンダーグラウンドのテクノ/レイヴの大きなシーンが生まれた。人々はテクノやエレクトロニック・ミュージックを作り、たくさんの人々が工場や倉庫に踊りに来た。僕にとっての文化的な発見──生を祝福する、アンダーグラウンド音楽の発見はあそこから始まったと思う。あれは主流派の商業的なカルチャーに対するオルタナティヴであり、体制/権威側に対するオルタナティヴでもあった。ああしたイベントは無許可で組織されたし、違法だった。すごい数の人間が集まったけど、年齢チェックもなしだったから、僕みたいな16歳の未成年でも入場できたんだ。僕はあそこで、とても音楽に熱心で、新しい音楽を発見するのに入れ込んでいる人々のコミュニティと出会った。同時に、インディ・バンドのシーンもビッグだった。思うにベルゲンではあまり色んなことが起こっていなかったから、自分の人生に何か起こしたいのならバンドを組むかサッカーをやる以外にない、ということだったんだろうな。友人もみんなバンドをやっていたし、クラブに遊びに行くとみんなバンド連中で、聴き手/ファンよりもバンド人の方が多い、冗談みたいな感じだった(苦笑)。

全アルバムを総括:KOCの「モダンな感性」

―1st『Quiet is the New Loud』(2001年)は、音楽こそソフトでデリケートながら、「控えめさこそ大きく物を言う/静けさこそ新しい」というタイトルは新人の所信表明としてはかなり大胆です。当時の何に対して反旗を翻したのでしょう?

アイリック:90年代半ば頃は、プロダクションに重点を置いた音楽がとても多かった。Pro Toolsを始めとするコンピュータを録音ツールとして使う時代の走りだったし、スタジオでいくらでもトラックを重ねることが可能になり、プロデューサーは録音技術に夢中になっていたように思えた。「何かが失われつつある」と僕たちは感じたし、当時の僕はブラジル人アーティスト、ジョアン・ジルベルトの1960年代の音源にとてもハマっていて、60年代に作られたこの音楽には細やかで人間的なぬくもりのある、実体感を伴う資質があると気づいた。90年代の音楽に欠けている資質はそれだと思ったし、このシンプルさというか、もっと人間的な音楽のサウンドを再発見する、という発想にすっかりのめり込んだ。あのタイトルの所以はそこだった、みたいな。僕たちは「っていうか、とてもシンプルなやり方でできるじゃないか!」と気づいたわけ。

それに、僕もアーランドもテクノロジーに一切興味がなかったところも反映されていると思う。音源のサウンドを変えるにはどうすればいいかスタジオで考えあぐねるとか、どうやったらもっと技術面で進んだものにできるかとか、そういった面にはまったく興味がなかった。要は、僕たちは「とにかく楽器を弾いてみない? アコースティックな演奏に集中して、そのポテンシャルに焦点を置こう」と思ったっていうこと。自分たちが手にしているこの果物からどれだけ果汁を絞り出せるか、テクノロジーに頼らずにアコギだけで興味深い音楽を作れるかどうかやってみよう、と。それはある意味、こちらを解放してくれるアイディアだったね。自分たちのギターとボイスだけの狭い枠組みの中で、何だって好きなようにやれた。おかげで自由な感覚がもたらされたんだ。

―2nd『Riot on an Empty Street』(2004年)は、丁寧かつ慎重にサウンド面でカラフルさを増し、ファイストという「第三」の声も迎えました。自国はもちろん海外でも1stが成功したことで、やはり次の段階=拡張の思いがあったからでしょうか?

アイリック:まあ、「もうちょっと遊んでみよう」という感じかな? 前作よりレコーディング予算が増え、協働できる相手の数も増えた。最初のうちは無名で、他に誰も知らず、お金もなかったけれど、僕たちと一緒にやってみたいって人々が急に出てきてね。プロデューサーのダヴィード・ベルトリーニはアップライト・ベースを使いたがっていたし、スタジオではアップライト・ベースを加えることになった。ベルゲンにあるグリーグ・ホールというシンフォニー・ホールの録音スタジオで作業したから、クラシック音楽家がうろうろしていて、その何人かに声をかけて一緒に演奏してもらったこともある。チェロにトロンボーンに、僕たちの友人のベルリン出身のヴィオラ奏者トビアス・ヘットも駆けつけてくれたし、レスリー・ファイストともベルリンで出会い、「ベルゲンで僕たちとレコーディングしませんか」と彼女を招待した。そんな風に僕たちの「取り巻き」の数は増えていたし、それがあのアルバムに反映されている。

と同時に僕たちは、シンプルさに徹するアコースティック・デュオとしてのKOCというアイデンティティも維持したかったから、とても気を遣った。だからある意味、バランスをどう取るか、ギター以外の楽器の参加をどこまで許すかを見極める、ってことだったんだろうね。「Id Rather Dance with You」を録った時に、「ダメダメ、この音源は使えない! ドラムにベースも入っているし、それではKOCではなくなってしまう」と思った。あのかなり異色な歌に関して、自分たちがややアンビバレントな感覚を抱いたのは憶えている。そうは言いつつ、僕たちにはSkogの経験もあったから、ドラム/ベース/ギターというバンド編成には慣れてもいて。だから、あの時点の僕たちは少しどっちつかずだったというか、どの方向に進むべきか迷っていたんだと思う。

―アーランドは1stと2ndの間にソロ作『Unrest』(2003年)を発表しました。本業のKOCが軌道に乗ったばかりのところで、ソロを出すタイミングとしては「あり得ない」と思いましたし、彼はThe Whitest Boy Aliveも2006年にスタートさせています。とても自由奔放な彼のソロの動向を、あなたはどう見てきましたか?

アイリック:僕たちふたりの異なる人生が映し出されている、ということだろうね。僕はいずれ妻になるガールフレンドと同居していて家庭人だったから、ツアーでしょっちゅう家を空けたくなかった。希望は家に留まり、音楽を作ること。ギターを弾くのも、曲を書くのも、自分の家にいるのも大好きなんだ。対してアーランドは旅行好きで、視野を広げ、様々な文化を探求し、新しいことに挑戦したがっていた。彼は目新しいものが大好きだし、常に新しいことに手を出す。ふたりの人生観にはかなり差があったということだし、アーランドを枠の中に押し込め、ここベルゲンでスタジオに捕まえておくことは無理だと悟った。彼は放し飼いにしてあげる必要がある、そういう奴なんだ。となったら僕にとれる最良の策は、自分はKOCにフォーカスして曲を書きレコーディングを続け、願わくは、たまに彼がふらっとやって来て作業に参加し、オーヴァーダブ等をやってくれることを祈る、ということで。僕の長年のアプローチがそれだったし、それでうまくことが運んできた。

―2006年3月、今から20年前に初来日を果たしました。あの頃からアジアもツアーし始めていますが、日本はもちろん、KOC人気の高いインドネシア、韓国、香港等の東南アジア諸国を回って印象に残ったのはどんなことでしょう。

アイリック:自分たちの音楽のおかげであんなに遠くまで行けるようになり、はるか彼方のカルチャーに届いたことにひたすら驚かされた。僕たちからすれば文化的に見て非常にエキゾチックと思える土地の数々だし、なのにそんなエリアの人々にも僕たちの音楽が響いたんだから。でも僕は、日本は最初にKOCの文化的アプローチを理解してくれた国々のひとつだった、そう感じていてね。「自分たちのアイディアを、文化的/哲学的なニュアンスを本当に掴んでもらえた」と最初に感じた、そんな国のひとつが日本だと思う。こんなに離れているのに実によく理解してもらえて、とにかくハッピーだった。

というのも初めのうち、僕たちは地元ではちゃんと理解されていない、やろうとしていることを理解してくれる人は決して多くない、そんな気がしていたからね。最初にレコード契約をゲットしようとした時、ノルウェーの大手レコード・レーベル、オスロの〈EMI〉にデモを送ったんだ。すると反応は「我々はこういうフォーク音楽の契約はやっていません。フォーク音楽に興味はありません」という感じで、それこそもう、1996〜97年頃にやれる最もダサい音楽はフォークだ、みたいな? だから自国じゃ理解してもらえないのか……という気分だったし、ところが00年代初期にアジアを訪れたところ、うわ、こっちの人たちは僕たちのやろうとしていることをちゃんと理解し、評価してくれているじゃないか!と思った。心からホッとしたし、あれはとても嬉しかった。

―3rd『Declaration of Dependence』(2009年)はアメリカ独立宣言と引っかけた、またもや少々ユーモラスなタイトルです。音の面でのアンサンブルはぐっと絞られていますが、これはなぜでしょう?

アイリック:ああ、そぎ落としたね。あの時、僕たちはイタリアのずいぶん人里離れたエリアにあるスタジオに長くこもったんだ。冬だったから人ともめったに会わなかったし、スタジオには僕たちふたりきり。それでとてもシンプルなアプローチに回帰していくことになり、ギターの音色を正しく捉えることにとことんこだわり、それまで以上に歌声も重ねていった。ボーカルのハモりの「技」を会得しつつあった、というのかな。ハーモナイズに初挑戦した頃の曲をあれこれ聴き返すと、まだあまりうまくなかったと思うけど、『Declaration〜』を作る頃までに僕たちの和声はかなり上達していた。だからあれは、自分たちの育ててきたハモりのスキルを楽しむこと、それが表現された結果だった。

アルバムのタイトルは──僕たちはとかくインディペンデンス(独立)に重点を置きがちだよな、という思いが浮かんでね。「独立宣言」という言葉自体、無条件で良いものと看做されるし、何かからの独立の意思を表明することは非常に素晴らしいと思われている。ところが僕は、人生に対するそういうアプローチの仕方にあまり確信が持てなくて。それに、アーランドはこの「独立独歩」というアイディアに惚れ込み過ぎだな、と考えてもいた。そのおかげで、僕には不確実性がもたらされるわけで──というのも、果たして彼がスタジオに現れるかどうかさっぱり見当がつかなかったし、彼と来年会えるかどうかすら怪しいぞ、みたいな。彼はソロ・プロジェクトを既にふたつ抱えていたし、いつだって神出鬼没。KOCは彼と僕とで成り立っているはずなのに、僕にとって彼の存在は不確かだったわけ。だからあの「依存宣言」というフレーズは、「他の誰かと一緒にやった方が良い結果になる。誰かと連携関係を結ぶ方が、人間としてもアーティストとしてもその人のためになる」という発想を彼の頭にこっそり忍び込ませる、僕なりのやり方だったように思う。人間は同族的な動物だし、結びつきを必要としている。僕たちの根源的な本能は社会性を求めるものなんだよね。だからあのタイトルは、アーランドとこの世界の双方に対する批評だったし、二重の意味があるということ。僕はあのフレーズで、僕たちはみんな他の人と連帯し、誰かに献身的に尽くした方が良い、という発想を祝福しているんだ。自分自身よりも大きい何かの一部になることで、僕たちは人間として成長する。「君」や「私」といった個人レヴェルの話ではないし、人類の達成してきた偉業の数々にしても、すべては集団で努力した成果だしね。

例えば──僕は心理学者で、フロイトが大好きだから精神分析を勉強中なんだ。でも学んでいるうちに、フロイトの提唱した数々の概念のうち、彼自身から発した概念は実はとても少ないことに気づいた。彼は友人や同僚、当時研究していた学者等、あらゆるものから盗んでいた。基本的に、フロイトは自我/超自我といったコンセプトを丸ごといただいてきて、自身の概念の枠組みに当てはめ、自分のアイディアと呼んだわけだけど、実はあれはゲオルグ・グローデックを始めとする様々な人から発した概念だったんだ。

―芸術家にせよ哲学者にせよ科学者にせよ、秀でた人たちは優れた翻訳者でもあります。フロイトは色々なところからコンセプトや情報を引っ張ってきたでしょうが、彼はそれをより簡潔で分かりやすく、同時代人が理解できるものに翻訳してみせたんじゃないかと。

アイリック:その通りだと思う。

―KOCも、ある意味それと同じことをやったのではないでしょうか? 初期のあなたたちはよくサイモン&ガーファンクルを引き合いに出されました。どちらも白人男性がハモるアコースティック・デュオなのでうなずける比較ではありましたが、KOCは明らかにモダンな感性を備えた、2000年代の産物だったわけで。

アイリック:うん、僕たちはハウスやエレクトロニック・ミュージックもかなり聴いていたからね。その要素は僕たちの音楽にたくさん含まれているし、ハウスとかなり繫がっていると思う。用いるコードだとか、ループしていく、単純な楽曲構造といった面はエレクトロニック・ミュージック/ハウスから大いに刺激を受けている。ただし、それをアコースティック楽器でプレイするわけで、僕たちは間違いなく何かを翻訳し、自分たちの音楽の中に取り込んでいると言えるね。だけど、僕たちは何も発明したことがなくて。「自分たちは発明者だ」なんて思ったことはない。何もかも、様々な音楽の異なる要素からインスピレーションを引っ張ってきたものだし、でも、そこに発明の才があるんだよね。

つまり「よし、アコースティックなハウス・ミュージックをやってみようじゃないか」と。例えば、このハウス曲にはとても複雑で興味深いハーモニーがあるし、メジャー6th、メジャー7th、メジャー9th、マイナー7th、マイナー11th……といった具合にコードがたくさん使われていて、すごく面白いハーモニーを生み出している。じゃあ、その緻密なハーモニーをギターのコードで演奏してみよう。かつ、さりげなくグルーヴィーなものにしたいな、と。ドラムこそ使わないけれど、どこかグルーヴ感のある音楽を目指すという点も、エレクトロニック・ミュージックに触発されていた。だからクリエイティヴィティというのは常に、既存の何かを再解釈することなんじゃないかな。そして、ひとつの世界のある要素に別の世界のある要素をあれこれ組み合わせてみて、どんな結果が生まれるかを見守る、という。

16年ぶりの来日に向けて

―2021年に4作目『Peace Or Love』が発表されましたが、12年というギャップは何もかもが加速した現代では100年くらいに感じられる時間です。制作中に「時間が空き過ぎだ、急がなければ」と焦りましたか?

アイリック:まあ、コロナもあったしね。2年近く「凪ぎ」の時期だったし、制作プロセスの最後のあたりではじたばたしても仕方ない、という心境に達した。僕はある意味、あのパンデミック期をありがたく受け止めたんだ。緊急性が突然消え去り、「急げ!」という焦りから誰もが解放されたというのかな。何も起こっていないし、来月もたぶんその調子だろう。だったらいっそ時間をかけようというところで、このプロジェクトにとっては理想的な情勢だった。ディテールにとことんこだわることができたし、「来年か再来年にはリリースしなければ」と焦らずに済んだというか、完成までに3年かかろうが4年かかろうが構わない、と一種開き直ったんだね。理想の雰囲気だし、僕はそういう作業の進め方が好きだ。

ただ、今振り返ってみると、時間をかけたぶん作品が更に良くなったとは自分には言い切れないかも。というのも、やろうと思えば『Peace〜』は2016年か2017年には出せていたんだよ、あの時点で収録曲はすべて書き上がり、レコーディングも出揃っていたから。けれどもああして音源を何度も聴き返し、録音をやり直す歳月を重ねたからと言って、実際に作品が向上したとは限らないんじゃないか……?と思う。最終的に、あのアルバムを少なくとも5回は録り直したからね! どの曲も何度もレコーディングし直したし、あのアルバムを5バージョン発表することも可能だったくらいで(苦笑)。

―(笑)完璧主義ゆえですね。

アイリック:そう。

―ですが、非常にソフトで緻密なアコースティック音楽なだけに、フェス等にも多く出演してきたとはいえ、やはり音響の良い、座ってじっくり耳を傾けられる会場が理想的かと。その意味で、おふたりが目の前で演奏しているようなインティメイトな息遣いを感じる『Peace〜』は優れた成果だと思います。

アイリック:うん。でもライブに関しては、良い解決策を見つけたんだ。僕たちのライブで音響を担当してきたエンジニアのアンドレ・トレッビ──彼とはもう25年の付き合いだけど、おかげで僕たちは生でビッグなサウンドを作り出すことができるようになった。あれは本当に、彼の努力の賜物だと思う。僕たちの音楽にある親密さを損なうことなく、彼はそれをビッグに響かせてくれる。2万人の観客を相手に演奏したこともあるけど、彼のやり方ならとてもうまくいくんだ。もちろん、そこはアコギに使うものも含めたマイクロフォンのテクノロジーが大きくて、静かにささやくように歌いかけても大型スピーカーを通せばしっかり大きく聞こえる。だから大会場でプレイするのもまったく問題なしだと分かったし、僕たちはここ何年かメキシコ人のバッキング・バンドとも共演していてね。日本にも彼らを連れて行くつもりだよ。

―それは嬉しいですね!

アイリック:ベーシストとドラマーのふたりで、彼らにバックを担当してもらうパートと、デュオ編成のパートが混ざる予定。日本にはかなり長いこと行っていなかったから、やっぱり僕たちの作品のコア部に焦点を当てたセットにしなくちゃいけないだろうな。だけど、その場でアドリブも加えるから、自分たちの頭の中ではセットリストは常に変更可能なんだ。当日のサウンドチェック中にふと、昔のちょっと変わった歌を久しぶりにプレイしてみたら今は良い感じに聞こえて、それで「よし、今夜はこれも演奏しよう」と決めることだってあるし。だからたぶん、サプライズ曲も混じるだろうね。

―観客からのリクエストは受けつけてくれますか?

アイリック:ああ、もちろん。リクエストは大歓迎だよ。自分たちの曲のほとんどを、臨機応変にプレイできるのを誇りにしているからね。ただ、たまにお客さんから、ライブで15年近く演ったことのない曲を急にリクエストされることもあって……(苦笑)。それでも、僕たちはできるだけがんばるからさ!

デュオ(上)、バンド(下)でのパフォーマンス映像

KINGS OF CONVENIENCE|LIVE INFORMATION|SMASH [スマッシュ] Official Site

KINGS OF CONVENIENCE Japan Tour 2026

2026年7月6日(月)東京・Zepp DiverCity (TOKYO)

2026年7月7日(火)大阪・梅田CLUB QUATTRO

OPEN 18:00 START 19:00

詳細:https://smash-jpn.com/live/?id=4599

【動画】今こそ聴きたいキングス・オブ・コンビニエンスの名曲

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