スーパーカー最速伝説!|ランボルギーニ・カウンタックLP5000QV

「世界最速の車を作る」というランボルギーニの評価を確立したのは、”この”カウンタックだ。そう、レーシングドライバーのピエルルイジ・マルティーニが最初のオーナーだったLP5000クワトロバルボーレである。

【画像】すれ違う歩行者の視線を釘付けに!今なお特別な存在であるカウンタック(写真10点)

空には夏の嵐が過ぎ去った痕跡が残っていたものの、1986年製ランボルギーニ・カウンタックLP5000クワトロバルボーレをマッジョーレ湖周辺で走らせるには絶好のコンディションだった(編集部註:イタリア語の発音をカタカナ表記すると”クンタッチ”が近いが、本誌では今後も日本で親しまれたカウンタックと表記する)。

すべてのカウンタックが特別な車であることは否定しようがないが、シャシーナンバー”FLA12894”が与えられたこの車両はとりわけ貴重な存在。もっとも、ストレーザの街のプロムナードをこのカウンタックで流せば、たとえその伝説的なヒストリーを知らない人でも、振り返ってその姿を目で追っていた。私自身はできるだけ目立たないように走ったつもりだったが、カウンタックの容姿はすれ違う歩行者の視線を釘付けにしたようだ。スマホを高く掲げてその姿をカメラに収めようとする人は少なくなかったし、アウディのRSモデルに乗るドライバーは大きく振り返ってサムアップを送ってくれた。歩道を歩く紳士の一団が、すれ違いざまに突如として拍手をし始めたことには驚かされたものだ。しかも、これらは2025年のできごと。もちろん、人々の反応は車や場所が違えば異なっていたことだろう。

1971年ジュネーヴでの感嘆符

では、1971年のジュネーヴ・モーターショーで初めてコンセプトカーがお披露目されたときの波紋は、どれほどのものだったのか。革新的なスタイルが市場に与えるインパクトを見定めるために発表されたショーカーは人々を熱狂させた。そして、世の中のあらゆる自動車雑誌が黄色のLP500カウンタック・プロトタイプを表紙に取り上げたことで「歴史上、もっとも有名なショーカー」に仕立て上げられたのだが、この影響でランボルギーニは直ちに解決しなければならない課題を突きつけられることとなる。

人々はカウンタックをただ欲しただけでなく、渇望していた。しかし、ショーカー自体は即座に量産が開始できる状態からはほど遠かったのだ。このため、ランボルギーニの伝説的なテストドライバーであるボブ・ウォーレスをもってしても、路上をまともに走れる状態に仕上げるには3年の歳月を要した。しかも、それはカウンタックの、絶え間なく進化を続ける長い歴史の始まりに過ぎなかったのである。

カウンタックの誕生に関する説明でもっとも深く共感できるのは、ベルトーネのチーフデザイナーで、そのスタイリング作業で主導的な役割を務めたマルチェロ・ガンディーニの手腕だ。「当時、ミウラのセールスは引き続き好調で、事実、ミウラSVを発表したのも同じ年のジュネーヴ・ショーでした。ただし、ランボルギーニにはフェルッチオのスピリットが息づいていて、誰も手を出さないようなことに挑戦しようという気概に溢れていたのです。新たなエンジン搭載位置けの挑戦、エッジとコーナーを強調したボディ・シェイプ、これまでにないドアの開き方…。そう、常識外れともいえるシザードアはなにか新しいコンセプトを作り出したいという強い思いから生まれたもので、カウンタックの革新的な特徴となっただけでなく乗降性の改善にも役立ちました」

そして1978年、コンセプトカーのクリーンなラインを手直ししたウルフLP400が誕生し、そのシェイプは後にLP400Sへと受け継がれていく。もともと、カナダのF1チームオーナーであるウォルター・ウルフのワンオフモデルとして作られたウルフLP400は、カウンタックのポテンシャルを強調する役割を果たした。その開発を支援した”インジェネーレ(イタリア語で「エンジニア」の意味)”ジャンパオロ・ダラーラはランボルギーニを退職し、数カ月前に自らの会社を立ち上げたばかりだった。

また、ウルフLP400には超低扁平率のピレリP7が装着され、このためより大きなサイズのブレーキが搭載可能になったが、リバンプ側のサスペンション・セッティングを修正する必要にも迫られる。そればかりか、規格外のワイドタイヤをカバーするためにオーバーフェンダーが装着され、あわせてフロントスポイラーのデザインも見直された。この新しいスタイリングは、やがて400Sによってコピーされるとともに、顧客からの要望を満足されるためにも活用された。そして、おそらくは数百万人ものティーンエイジャーたちの自室を飾るポスターとしても人気を博し、続く20年間のスーパーカー・ビジネスにおいては常に評価基準とされる存在となったのだ。

クワトロバルボーレ(QV)は、カウンタックのモデルライフとしては後期に誕生したモデルである。そのシリンダーヘッドは4バルブ方式を採用し、排気量を5167ccまで拡大。驚くべきことに、クワトロバルボーレはアメリカに正式に輸入された最初のカウンタックであり、これがきっかけとなってクライスラーは1987年にランボルギーニを買収したともいわれる。なお、エンジンの燃料供給装置には2種類が用意されていて、ひとつは6基のウェバー44 DCNFキャブレターで、最高出力は455bhp。そして排ガス規制が厳しいアメリカ市場向けに設定されたボッシュ製燃料噴射装置を搭載したモデルの最高出力は420bhpとされた。また、1988年以降のモデルにはシルに沿うようにサイドスカートが装着可能になったほか、フェラーリ・テスタロッサのライバルであることを視覚的に示す”桟”がここに組み合わされた。

特別な1台、”FLA12894”

ここで紹介する”FLA12894”は、1986年6月13日に最初のオーナーであるピエルルイジ・マルティーニに納車された。やがてミナルディF1チームに所属し、さらにはル・マン24時間でも優勝したレーシングドライバーである。そのダッシュボードは赤とダークブラウンの組み合わせ(マローネ・テスタ・ディ・モロ)で、”EE 426 AK”のライセンスプレートを備えていた。イタリアの”EE”は一時入国外国自動車標識の意味で、イタリア国外の居住者が車を自国に持ち出す前に、イタリア国内での一時的な運行するためのナンバーである。これをつけることによりイタリアで義務づけられている税金が免除されるという特典がある。ちなみにピエルルイジ・マルティーニはモンテカルロ在住だった。「カウンタックのことは、もちろんよく覚えているよ」と"ピエロ"・マルティーニは私にそう切り出した。

「あの車の最初のオーナーだったからね。当時はランボルギーニでジェネラルマネージャーを務めていた”インジェネーレ”・ジュリオ・アルフィエーリと懇意にしていたし、販売責任者のウバルド・スガルツィやセールスマネージャーのエンゾ・モルッツィとも親しかったよ。そうそう、広報部門の責任者だったダニエル・オーデットのこともよく知っていた。それで、この車を値引きしてもらう代わりに車の開発を手伝って、それをメディアでプロモーションする約束ができていたんだ。車が納車された日付も覚えているよ。なにしろ、F3000のレースで初優勝した直後のことだったからね」

ピエロは、とあるイギリス人ジャーナリストとの間にひと悶着が起きていたことも教えてくれた。このジャーナリストは独自にカウンタックの最高速度を計算。「280km/hを超える能力はない」との見解を『FASTLANE』誌に寄稿していたのだ。「まずはヴァレンティーノ・バルボーニが否定したんだけれど、続いてオーデットが僕に頼み込んできたんだ。

『件のジャーナリストを計測器と一緒に君の車に乗せて、実際に最高速度を体験させれば、自分が思っている以上にカウンタックが速いことをわかってもらえるんじゃないか』とね。もちろん、僕もそのアイデアに賛成したよ。それで僕たちはモデナから高速道路に乗ってブレンナー峠を目指したんだ。旅の目的はただひとつ。彼にクワトロバルボーレの最高速度を体験させることだった」

ただし、当日のコンディションは理想的とは言いがたいものだった。「なにしろ夏の真っ直中で、高速道路はトラックや行楽客で混み合っていて、流れはよくなかった。隣に腰掛けていた彼は”アイスマン”を装っていて、怖がっている様子は一切見せなかったけれど、いずれにしても困難な状況だったことは間違いないね」

「とにかくガスペダルを床まで踏み抜いて、最低でも1kmは走らないといけなかった。でも、遅い車が割り込んでくるせいで、何度も中断しなければいけなかったんだ。それでも繰り返し挑戦して、ときには高速道路脇の草地にタイヤを落とすこともあったけれど、どうしてもうまくいかない。300km/hには何度か到達したものの、量産車でいちばん速いことを証明するには315km/hを出さないといけなかったんだ。一度306km/hを記録したけれど、このときは後で追い風が強いことがわかって、本当にガッカリしたよ」

「外気温は35℃。今度はパルマに向かう別の高速道路に乗った。3車線あるから大丈夫だろうと思ったんだ。事実、320km/hをマークしたけれど、あと150mで記録達成というところで小さなバンが飛び出してきたんだ」

それでもマルティーニは諦めなかった。「最後は非常用車線まで使い切って、1km平均で314km/hを記録したんだ。それでとうとうイギリス人ジャーナリストも頭を垂れたよ。ただし、外気温が高かったせいで、テストをしたあとでヘッドガスケットを交換しなければいけなくなった。それでもここで強調しておきたいのは、僕のカウンタックはあくまでも純正仕様そのままだったということ。ただ、サスペンションだけには手をくわえて、車高を少し落とすとともにアンチローバーをちょっと硬めのものと交換しておいたけれどね」

「あの日のことは忘れられないよ」”最高速テスト”を企画したオーデットもその事実を認めた。「ピエロには、イギリス人ジャーナリストを乗せてテストするか、雑誌のために試乗してほしいと頼んだんだ。FLA12894は、とにかくいろいろな雑誌に載ったよ。そのなかには、もちろん『FASTLANE』の1986年9月号もあった」

騒動のきっかけとなった記事を書いたイギリス人ジャーナリストは、その名をピーター・ドロンというが、後に彼はオーデットに宛てて長い報告書を作成。そこで314km/hをマークした事実を認めたそうだ。そして、ドロン自身が記事を寄稿した『FASTLANE』の1986年9月号はいまもオーデットの手元に残されているという。

その後の”FLA12894”

ランボルギーニの名誉を守ったクワトロバルボーレは1988年8月に登録された後、10月にはシシリーのオーナーに売却され、そこで新たなライセンスプレートを得た。1995年にはイタリアのフォルリに暮らす人物が買い取ると、定期的に使用しながら2022年1月まで保有。続いてドイツに渡り、現在の”庇護者”のもと、コレクションの一部として大切に保管されている。

現オーナーが語る。「コンディションのいいカウンタックをずっと探していましたが、なかなかいい車両に出会えませんでした。ところが、このクワトロバルボーレはコンディションがいいうえに素晴らしいヒストリーも備えている。つまり私の希望がすべてかなえられたのです。オリジナルの状態を保っていたことにも驚かされました。生産されて以来、ホイールを交換されたことが一度あったきりだそうですが、そのホイールも本来のものに戻してあります」

そんな由緒正しいカウンタックのステアリングを握る機会が巡ってきた。私はピエロほど鞭を入れなかったが、それでもV12エンジンは美しい音色を奏で、途切れることのないトルクを生み出して私の背中をグイグイと押した。コクピットが広い前期型のクワトロバルボーレは私のお気に入りだ。フロントスポイラーが高い位置にあるので路面に擦る心配をあまりしなくていい点も好ましい。25thアニバーサリー以前のボディがオリジナルの面影を残しているのも嬉しいところだ。

前方視界は申し分ないのに対して、サイドはやや心許なく、後方視界に関しては完全に諦めたほうがいい。コンディションのいいカウンタックの乗り心地は引き締まっているものの硬すぎず、暖機が終わって以降のクラッチやギアボックスを操作するのに丸太のような筋肉が必要なわけでもない。ブレーキのコントロール性は高いが、ABSがついた現代のモデルのつもりでブレーキペダルを蹴飛ばすとフロントがロックする傾向があるので要注意。もっとも、カウンタック・クワトロバルボーレで私がもっとも好ましいと思うのは、自宅に乗って帰ったとき、9歳になる息子が家から飛び出してきて、ドライブに連れて行ってほしいとねだってくるところにある。

カウンタックのカリスマ性は時や世代を越え、現代の子供たちにも40年前と似た感動を与えるものらしい。だから、もしも「近い頃の若い者は車に関心がなくて」というボヤキを耳にしたなら、こうアドバイスするといいだろう。「その子をカウンタックに乗せて、なんというかを見てごらん」

1986ランボルギーニカウンタック LP5000クワトロバルボーレ

エンジン:5167cc、48バルブ、DOHC、ウェバー 44DCNFキャブレター×6基

最高出力:455bhp/7000rpm 最大トルク:369lb-ft(500Nm)/5200rpm

トランスミッション:5段MT、後輪駆動 ステアリング:ラック&ピニオン

サスペンション(前/後):ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、テレスコピックダンパー、アンチロールバー

ブレーキ:ベンチレーテッド・ディスク、4ポット・キャリパー

車重:1490kg 最高速度:195mph(313.8km/h) 0-62mph加速:4.8秒

編集翻訳:大谷達也 Transcreation:Tatsuya OTANI

Words:Massimo Delbo Photography:Max Serra

THANKS TO the owner, to Giuliano Silli, the Frua family archivist Roberto Rigoli, Stefan Dierkes and Philippe Murari.