
皆さんは、Siataと呼ばれる自動車メーカーをご存じだろうか?名前は知っているけど、その歴史は知らないという人が多いのではないかと思う。筆者も実はその一人だった。設立されたのは、1926年。アマチュアのレーシングドライバーだった、ジョルジョ・アンブロシーニが立ち上げた。そもそもSiataという名前は、当時のイタリア自動車メーカーが名づける常道ともいえる、頭文字の羅列。Siataの場合はSocietà Italiana Auto Trasformazioni Accessoriの略で、日本風に言うならばイタリアの自動車改造アクセサリー会社といったところである。要はチューニングショップとしてスタートしたものだった。会社は意外といっては失礼だが、長く存続し、1970年にその門を閉めることになった。それまでに生産した車の数は、およそ1850台といわれる。
【画像】オープンモデルの208Sは35台、クローズドボディの208CSは11台生産されたといわれるシアタ208(写真8点)
第2次大戦前のSiataは、創業の理念を守りチューニングパーツの開発に従事した。とりわけ、エンジンとギアボックスのチューニングパーツ開発に精を出していたようで、対象となる車は、イタリア最大の自動車メーカーである、フィアットのモデルであった。そして1936年に初代のフィアット500、トポリーノがデビューすると、彼らのビジネスはピークに達したという。
戦時中は、すべての自動車メーカーが操業を停止した関係もあって、彼らのビジネスもストップ。戦後に復活の見込みが途絶えたかと思われたのだが、アンブロシーニはしたたかであった。チューニングビジネスから、自動車メーカーへと大いなる転身を遂げ、1948年には、彼ら初のコンプリートカーであるアミカを発表した。チューニングショップで培った技術を遺憾なく発揮し、スペシャルなシリンダーヘッドにウェーバーのツインキャブを装着したこのモデルは、ベルトーネによるコンバーチブルと、クーペの2種のボディがあった。1952年まで作られたアミカには、500ccモデルのほかに750ccモデルも存在したという。
アミカに続いてデビューしたダイナは、ヒット作となった。といってもその生産台数は100台に満たない。ベースとなったのは当時のフィアット1400だが、ボックスセクションのシャシーはSiataオリジナルであったし、エンジンもアミカ同様に、ウェーバーのツインキャブレターと、専用シリンダーヘッドにインテークマニフォールドが装備されていた。チューニング技術を駆使して、排気量は1.4リッターのほかに1.5リッター、1.8リッターなどが用意された。生産台数については諸説あるが、おおよそ200台から250台は作られたようである。
イタリアの小さな自動車メーカーの例にもれず、Siataもレースで成績を残して、その評判を量産車に反映させる手法をとっていたようだが、このダイナは1952年のセブリング12時間レースにおいて、ディック・アイリッシュ/ロバート・ファーガス組のSiata 1400グランスポルトが、総合3位、クラス優勝を遂げている。しかもフィニッシュはフェラーリよりも前だった。残念ながら4台出場したSiataのうち、フィニッシュしたのはこの1台だけであった。
シアタが最も注目されたのは、フィアット製V8エンジンを搭載したスポーツカーを世に送り出した時だろう。タイプ104のコードネームで呼ばれたこのエンジンの開発に、実はSiata が関わっていた。そんな関係もあって、シアタはこの2リッターV8エンジンの使用を許されたのである。70度V8という変則的なエンジンは、ダンテ・ジァコーザの設計。そしてこのエンジンを搭載するSiataのシャシーは、アルファロメオで辣腕を振るい、フェルディナント・ポルシェと共にあの4輪駆動のグランプリカー、チシタリアを開発した、ルドルフ・フルシュカが設計をしたものだ。
Siata208と呼ばれた車は、208Sと208CSが存在し、前者はロードスターもしくはコンバーチブル。そしてCSと名付けられたものは、クローズドボディを纏っていた。生産は208Sが35台。そして208CSは11台といわれている。208Sはその多くがミケロッティによってデザインされ、ボディ制作はカロッツエリア・モットが担当した。アルミボディは軽量ではあるものの、そのスタイルはイタリア的ではなく、あのコブラのもとになったACエースに似ている。そしてシャシーナンバーBS523はアメリカに送られ、オーナーとなったのはスティーブ・マックィーンだった。
ロッソビアンコに収蔵されていたモデルは、オープンなので本来は208Sなのだが、実は208CSをスパイダーにコンバートしたモデルなのである。もともとコンペティションスポーツクーペに仕上げられていたのだが、1955年にSiata自身の手によって、スパイダーに作り直し、1956年のタルガフローリオに出場している。その後ロッソビアンコ博物館に収蔵されたというわけである。ボディのデザインと制作を担当したのは、事業をたたむ直前のスタビリメンテ・ファリーナであった。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh