ロッテ時代のマイク・ディアズ氏(写真:産経新聞社)

 

 1989年から4シーズンにわたってロッテでプレーしたマイク・ディアズ氏。“ランボー”の愛称でファンから絶大な支持を受け、記録にも記憶にも残る活躍を見せた。前編では日米の野球の違いなどを中心に紹介したが、後編では日本で対戦した投手について、そして引退後の今について語ってもらった。(取材・文:八木遊)

 

「後悔しているが…」今の自分を作り上げた“攻撃性”

 

――― ディアズ氏といえば乱闘騒ぎが有名ですが、記憶に残っている乱闘シーンはありますか?

 

ディアズ氏 実は数多くの乱闘で記憶されていることはすごく後悔しているんだ。当時は勝利への強い情熱があって激しくプレーしていた。キャリアのあの時期は侮辱されたと感じたり、意図的に(死球を)当てられたりすると感情が抑えきれなかった。あそこまで攻撃的だったことは後悔しているが、それと同時にその攻撃性が今の自分を作り上げたのだと確信している。

 

 

 

――― ロッテ時代の4シーズンを改めて振り返って、思い出に残っている試合があれば教えてください。

 

ディアズ氏 最も印象深い瞬間は村田(兆司)さんとバッテリーを組んだ試合だね。野茂(英雄)投手との対戦も思い出すし、決勝ホームランを放った試合が何度かあって、チームメートと祝杯を挙げたこともよく覚えている。

 

――― ロッテ時代にすごいと思った投手は?

 

ディアズ氏 やっぱり野茂だね。彼のフォークは最も攻略が難しかった。そして兆司さんは殿堂級の投手だと思っていたから、彼と対戦しなくて良かったと思っているよ(笑)。

 

――― 1989年は有藤通世監督、90-91年は金田正一監督、92年は八木沢荘六監督の下でプレーしました。

 

ディアズ氏 監督は3人とも素晴らしい人物で、プロとして尊敬していた。中でも私が最も気に入っていたのは金田さん。彼は他の誰よりも、人間としても選手としても私を理解してくれているように感じられたからね。彼との数多くの夕食会やミーティングは大変ありがたかった。

 

――― ディアズ氏にとって、ロッテでの4シーズンは野球人生の中でどういった位置づけでしょうか。

 

ディアズ氏 いい意味で人生を変えてくれた。仕事への姿勢、チームワーク、チームの“和”!チームメートや対戦相手への敬意とファンの存在へ感謝することも覚えた。日本の野球と文化、そして偉大な伝統の一部となるため、いつかコーチとして日本に戻りたいと常々願っている!

 

――― 92年途中にロッテを解雇された後は、メジャー復帰を試みましたか?それともその時点でユニフォームを脱いだのでしょうか?

 

ディアズ氏 ロッテを退団後、私は身体を完全に回復させることにした。でも身体の痛みはなくなることがなく、指導者になる道を選んだ。もし健康を取り戻せれば再びプレーできると考えていたが、プレーしないまま1年が過ぎ、1993年に選手として正式に引退した。

 

 

「才能ある日本人選手が成功しない理由はない」ディアズ氏が送るメッセージ

 

――― 現在はどこで何をしているのでしょうか?

 

ディアズ氏 今はハワイのマウイ島に野球とソフトボールの屋内施設を所有して、地元の選手をはじめ、アメリカ本土や海外から来る選手の指導をしているよ。ほぼ通年で大規模なユース大会、トレーニングキャンプ、クリニック、セミナーを開催している。また、『パシフィック・プライド・ベースボールクラブ』という組織を運営していて、他国や近隣の島々、本土へ遠征し、競技を通じて異文化を学ぶ活動も行っている。

 

 

 

――― 次世代を担う選手の育成に力を入れているのですね。

 

ディアズ氏 リモートプログラムは日本からも参加可能だから、これを読んで興味が沸いた子供がいたらぜひ連絡してほしいね。野球だけじゃなくて英語も勉強できるし、一石二鳥さ(笑)。

 

――― では最後に日本のファンや子供たちにメッセージをお願いします。

 

ディアズ氏 野茂に始まりイチロー、大谷翔平と日本人選手がメジャーで一流になれることを証明した。今の子供たちにもそうなるチャンスはある。トレーニングのリソースも今や無限にある。メジャーで活躍するために唯一問題になるのが、フィールド外での生活様式や文化に慣れることだと思う。カルチャーショックもあるだろう。でも適切な指導者がいれば、才能ある日本人選手が成功しない理由はない。日本の文化と野球への愛と尊敬は、何よりもファンの皆様のおかげだ。日本での経験は私の人生を驚くべき形で永遠に変え、集団で互いを応援することの意義が、一人で行うよりもはるかに大きいという新たな視点を与えてくれた。日本がくれた思い出は永遠に大切にするよ。いつか必ず再訪の機会を得て、直接感謝の気持ちを伝えたいと願っている。

 

 約35年前、日本の野球ファンに強烈な印象を残したディアズ氏だが、その野球キャリアは順風満帆だったわけではない。1978年のドラフトでシカゴ・カブスから指名されたが、その順位は30巡目(全体685位)というものだった。

 

 その後は長いマイナー生活を経て、6年目に23歳でメジャーデビュー。ところがその年はわずか6試合に出場しただけで再びマイナーに降格した。メジャーに再び這い上がったのは、26歳の時だった。その後は2年間で28本塁打を放つなど活躍し、クリーンアップも担ったが、29歳で日本行きを決断した。

 

 ディアズ氏の言葉を借りれば、「いい意味で人生を変えてくれた」のが日本のプロ野球だった。65歳となった“ランボー”がいつか指導者として日本の地に戻ってくることはあるか。

 

【著者プロフィール】

八木遊(やぎ・ゆう)

1976年生まれ。スポーツライター。米国で大学院を修了後、某スポーツデータ会社に就職。プロ野球、MLB、NFLなどの業務に携わる。現在は、MLBを中心とした野球記事、および競馬記事を執筆中。

 

 

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【了】