福士蒼汰が主演するフジテレビ系ドラマ『東京P.D. 警視庁広報2係』(毎週火曜21:00~ ※全話放送終了後、FODでseason2独占配信)の第2話が、20日に放送された。
今作はこれまで数多く制作されてきた“警察ドラマ”の中でも、知られざる“警視庁広報課”を舞台にした完全オリジナル作品。第2話は、初回から続く警察官によるストーカー殺人“隠ぺい”のその後が、スリリングに描かれた。
追い詰められた犯人が自死を選ぶ結末
今作は“爽快感”が皆無である。
いや、今回の殺人犯となった警察官の居場所を突き止めたあの瞬間や、捜査一課理事官・松永(利重剛)が“暴露”したあの場面は、それぞれ“解決へと導かれた”という点において一種のカタルシスはあったのかもしれない。しかしそれは決して、“爽快感”ではなかったはずだ。
ドラマの作劇において“爽快感”は必須ではないし、今作が警察モノだからといって、その結末が常に“爽快”である必要もない。当然、後味の悪さを売りにするドラマはいくらでもある。ゆえに、「“爽快感”が皆無」であるという一点をもって、今作を咎(とが)めたいわけでも、あるいは斬新なドラマだと称賛したいわけでもない。
ただ、今作が特異なのは、“爽快感”がないからといって、それがすぐさま「だからこそ良い!」と反転したり、手放しに「面白い!」と変換されない点にある。良いとも面白いとも簡単には言い切らせない。その安易な分類を許さない点こそが、今作をかつてないほど深いものにさせている。
ではなぜ、“爽快感”を見いだせないのか。それは、この物語に“リアル”がちらつくことで、フィクションとしての飛躍や高揚が阻害されるからだ。
正義感に燃える今泉(福士)が警察内部の隠ぺいに抗う姿は、一見すればドラマチックな主人公の躍動に見えるだろう。しかし、彼は超人的なひらめきで事件を解決したりはしない。彼ができるのは、あくまで大前提である「警視庁広報課」という組織の一員として、その職務の範疇で全力を尽くすことだけだ。もしここで、彼の独壇場によって全てが解決してしまえば、それは広報課という看板を借りただけの、ありふれた警察モノに成り下がっていただろう。
また、殺人犯の行方を追う刑事との攻防が単純な人情で決着しない過程も、追い詰められた犯人が拳銃を降ろさず自死を選ぶという結末も、物語を予定調和に収束させるより「現実ならこうなるであろう」という非情なリアリティが優先されているのだ。
突きつけられる「晴れない霧の中を歩き続ける覚悟」
そんな“リアル”の追求をさらに決定づけているのが、劇中で起きている事件そのものの不気味な既視感だ。警察官がストーカーとなり殺人を犯すという、創作であってほしいと願うような惨劇は、かつて日本で実際に起きた「立川警察官ストーカー殺人事件」(07年)を強く彷彿させる。現実の傷跡をなぞるようなストーリーテリングは、エンターテインメントのための“作り話”という安全圏を奪い去った。
そして、初回に感じた危機感と同様、警察内部で起こっている情報開示のさじ加減による混乱は、現代社会の情報氾濫と通じており、この物語で描かれる光景が「今、この瞬間もどこかで起きているかもしれない」という抜き差しならない“リアル”を突きつけているのだ。
“爽快感”など微塵もない。ましてやこの先に希望が待っているという予感すら、今のところ見当たらない。それでも、私たちはこのドラマを最後まで見届けなければならないという、ある種の宿命にも似た義務感に駆られてしまう。
それは、理不尽な組織や歪んだ世の中に絶望するためではない。そんな不条理な世界でも、今泉をはじめとした広報課や、正しくあろうとする刑事たちが「自分ができること」を泥臭く追求し続ける先にしか、本当の希望は見えてこないのだ。
画面越しに突きつけられる後味の悪さを引き受けながら、それでも毎週、次の一話へと手を伸ばす。そして、うっすらとした希望の輪郭をつかみ取るまで、晴れない霧の中を歩き続ける覚悟があるのか? 私たちはこのドラマから問われている。






