清水慶記は2023シーズン限りで16年に及ぶプロのキャリアを終えた元Jリーガーだ。群馬県前橋市で生まれ育った彼は、最後は地元クラブ・ザスパクサツ群馬でグローブを置いた。日本代表から声のかかるような選手ではなかったし、主力として起用されたシーズンも4,5年しかない。しかしゴールキーパーという「人間性」が問われるポジションで、38歳まで契約を勝ち取り続けてきたところに、この男の真価はあるのだろう。

 プロサッカー選手としてはかなりユニークなキャリアを持つ彼だが、引退後の「セカンドキャリア」はさらにユニークだ。サポーターから「ゲームパティシエ」の二つ名を授かった彼は、本物のパティシエとして消費者に「よろこび」を届けようとしている。

 インタビュー前編ではひょんな出会いから運命が開け、完全な「叩き上げ」で長いキャリアを築いた男のサッカー人生と、セカンドキャリアの入口について語ってもらっている。

取材=大島和人
写真=須田康暉

―――まず現役生活を簡単に振り返っていただいていいですか?
僕がサッカーを始めるきっかけを作ったのは横浜F・マリノスにいた中町公祐(※清水と同じ2023年に引退し、現在は慶應義塾大ソッカー部監督を務めている)です。荒牧小の同級生で、しかも同じクラスでした。昼休みにサッカーをやるとき、僕はキーパーが好きで、当時から率先してキーパーをやっていたんです。

公祐は「前橋ジュニア」というクラブチームに入っていて、勝手に「上手いキーパーがいる」とコーチに話して、僕を誘ったんです。

自分は厳しそうとか、休みがなくなっちゃうとか、色々な理由で断っていました。ただ何度も誘われて、親が「1回だけ行ってみれば」と言って、練習に参加したらなぜか入ることになっていました(笑)

だから公祐に誘われていなかったら、サッカー選手にはなれていなかったですね。中学は前橋ジュニアユースにも上がって、前橋商業高、流通経済大を経て、大宮アルディージャでプロのキャリアをスタートさせました。

―――清水さんが在学していた頃の流通経済大は黄金期ですよね?
同じポジションにJFLの横河武蔵野FCに行った飯塚渉と、水戸短期大学附属(現水戸啓明高)から来た中川(達也/現・ジョイフル本田つくばFC・GKコーチ)といった同級生がいて、入寮したときは2人とも既にトップチームでした。自分は下からスタートです。

ただ僕が大学1年から2年になる2005年に、流通経済大(のBチーム)がJFLに参入したんです。そちらの試合へ出してもらうようになり、少しずつ評価を上げている手応えを感じていました。ただ3年になったら「ドラゴンズ」という3軍の社会人チームに出されたんです。2学年下に宇賀神(友弥/現浦和レッズ)もいたりしたんですけど……。

―――今思えば「3軍離れ」した人材がいました。
ただ社会人チームなので、登録上も大学(一軍)の試合に出られません。「もう可能性はないのかな?」と落ち込んでいました。でも4年になったとき、トップに戻してもらって、総理大臣杯(※毎年夏に開催される全国大会)でチャンスが来ました。レギュラーだった林彰洋(現ベガルタ仙台)が日本代表に呼ばれたときに、飯塚でなく僕を使ってもらえたんです。大会の全試合に出させてもらって、そこで優勝できた。Jクラブの練習参加にも呼んでもらって、大宮に行けました。

―――ただ大宮でも下積みが長くて、リーグ戦初出場は加入して6年目です。
自分自身はサッカーが好きで始めて、好きなことでお金を稼げて、それでも本当に嬉しかったです。実は小学校も中学校も、あまり試合に出られていないんです。

―――Jリーグに行くような選手の中では珍しい経歴ですね?
(中町)公祐に誘われたときは、上手なGKが既にクラブにいて、なかなか試合に出られないところからのスタートでした。そのような中でも腐らずできる部分は、小学、中学で培った強みだと思います。

―――プロ9年目の2016年からレンタル(期限付き移籍)でザスパクサツ群馬に来て2シーズン在籍しました。2020年に今度は「完全」で復帰して23年の引退までここでプレーをしました。
僕は前橋市の出身で、ザスパのホーム敷島(正田醤油スタジアム群馬)の近くで育ちました。僕が小学生のときは南橘中の先輩だった大野(敏隆)さんや、強化本部長の松本大樹さんが白黒(前橋商業)のスターで、黄黒の前橋育英と敷島で決勝を戦っていました。僕も「白黒」に憧れを持って、前商を選んだのですが、キーパーなので白黒は着られなかったですね(笑)

最初のオファーが来たときは、地元でしたし、高校のときはまだ社会人リーグだったザスパのボールボーイもした縁もあって、すごく嬉しかったです。試合に出たかったし、地元に恩返しできるチャンスだなという思いで、レンタル移籍を決めました。

―――2020年の再加入時は、30代中盤のベテランになっていました。
すでに最年長でしたが、歴史を知っているクラブですから、「クラブ愛」をみんなに伝える立場だと思いました。あと僕の強みは「出られない期間も腐らずやってきた」ところで、それはチームメイトに見せられていたかなと思います。

―――次のキャリアを考え始めた時期はいつでしたか?
2008年に大宮へ入ったときから「セカンドキャリアをどうしよう」という想いはずっとありました。どの選手も同じ感覚があるはずです。でも何をしたらいいか分からないのが現状ではないでしょうか?僕も不安はあるけど、「何をするか」が決まっていないから、まったく動けない状況でした。

僕はプロに「やっと入れた」選手だったので、1、2年で首を切られて、セカンドキャリアに移行する覚悟も持っていました。そう考えながらも、なんだかんだ16年やらせてもらったのですが……。

―――今は「株式会社JOYNOTE」を起業して、多彩な活躍をしています。どう会社設立までたどり着いたのですか?
大きなきっかけが、2016年のザスパ入りでした。1人ひとりのキャッチコピーをサポーターからいただくのですが、「ゲームパティシエ」が僕のキャッチコピーになりました。清水慶記の「ケーキ」から取ってゲームパティシエです。

―――ダジャレですけど、洒落ていますね! サポーターの応募したものから選手が選ぶのですか?
そうです。「ゲームパティシエ」が目について、自分で選びました。「面白いな」という理由もありますが、実は当時からお菓子作りをしていたんです。妻が毎年くれるバレンタインデーのチョコがすごく美味しくて……。年に1回でなくもっと食べたいなと思って「レシピを教えて?」というところから作り始めていました。

―――いつのバレンタインデーだったか覚えていますか?
妻は中学生の同級生で、その頃から手作りのチョコをもらっていました。自分でチョコレートを作って、コーヒーなどに合わせて愉しむ時間が、僕の大切なリラックスタイムでした。そんなタイミングで「ゲームパティシエ」のキャッチコピーをいただいたんです。ゲームパティシエがお菓子を作って、スタジアムグルメとかで出したら面白そうだな?サポーターの方も喜んでくれるかな?とも思いました。

でも、やっぱりサッカー選手をやりながら違うことをやるとなると、決して簡単ではないです。どうしても「ちゃんとサッカーをやっていないから負けるんだよ」とか、そういうネガティブな反応も出ますよね。僕の中に恥ずかしさもあったし、チームメイトからどう見られるかという不安もあって、当時は動けませんでした。

【清水慶記プロフィール】
ザスパ群馬 クラブアンバサダー/株式会社JOYNOTE代表
群馬県前橋市出身。前橋商業高校から流通経済大学を経て、2008年に大宮アルディージャへ加入。その後、ザスパクサツ群馬(現ザスパ群馬)、ブラウブリッツ秋田を経て、2023年にザスパクサツ群馬で現役を引退。その後、株式会社JOYNOTEを起業し自身のオリジナルチョコレートブランドを立ち上げる。同時に引退後、同クラブのクラブアンバサダーに就任し、現在はアカデミーのGKコーチも兼ねて活動している。