日本の春夏の風物詩といえる高校野球。毎年、舞台となる甲子園では感動的なドラマが生まれてきた。ところが昨年、少子化などさまざまな要因から、硬式野球の部員が四半世紀後にはピーク時の3割になるという衝撃的なニュースが報じられた。そんな高校野球消滅の危機を危惧してか、元メジャーリーガーのイチロー氏は、引退後、野球振興に力を注いでいる。そのイチロー氏が注目したのが静岡県立富士高校硬式野球部の活動。同校の野球振興活動について、監督の稲木恵介氏にお話を伺った。

9年で全国の高校野球部部員が25%も減少未就学児を対象とした野球交流会

2022年12月、日米の野球界で活躍したイチロー氏が、静岡県立富士高校の硬式野球部を電撃訪問し、野球指導を行った。イチロー氏はそれまでも野球振興の一環として、智辯和歌山高校や国学院久我山高校などを訪問していたが、いずれも高校野球界でもトップクラスと言える強豪校。まさか、野球で全国的な知名度があるわけではない公立の富士高校に、イチロー氏が来てくれるとは夢にも思わなかったと、同校野球部の稲木監督は当時の驚きを振り返った。イチロー氏が富士高校を訪問するきっかけのひとつとなったのが、同校が野球振興のために行っている活動だった。

「高校野球200年構想ができる以前は、いわゆる『事前選抜』にあたるということで、高校野球関係者が中学生に指導することは基本的には禁止されていました。静岡県では、小学生もそれに準ずるということで、小学生に対しても指導ができなかったんです。そうした制約は、子どもたちが野球を好きになる機会を減らしているんじゃないかと思っていました」

「高校野球200年構想」とは、2018年に全国高等学校野球選手権大会を主催している日本高等学校野球連盟と朝日新聞社、後援の毎日新聞社の三者が打ち出した野球の普及、振興、育成などを目的とした構想のこと。これによって子どもたちへの指導に関する制約が緩和された。実際、日本高校野球連盟の調査によると全国の高校の硬式野球部に所属する部員数は、ピーク時の2014度は17万312人。ところが2023年5月末時点では25%減の12万8357人と激減。さらに別の調査では、部員数が「10人未満」の学校が増え、8校に1校の割合で試合ができる人数を確保するのが難しい状況だという。

苦肉の策から始まった保育園児への指導

この問題に早くから気づいていた稲木監督は、「高校野球200年構想」が発表されるより4年も早い2014年、当時勤務していた三島南高校で、保育園児を対象とした野球普及活動を開始したのだった。

「小学生への指導がダメでも、保育園児だったらルールに抵触しないと考えたんです。サッカーですと静岡県では、清水エスパルスの下部組織や、J3のアスルクラロ沼津といったクラブの選手が保育園などを巡回して園児たちに『サッカーってこういう競技だよ』と興味をもたせるような活動をしていました。サッカーはトップリーグの下にきちんと高校生のユースチーム、中学生のジュニアユースチームと年齢層に応じた下部組織があって、縦のつながりがしっかりしている。一方で野球はそうした繋がりが分断されている。それでは野球をやる人材が育たないですよね」

この活動が認められ、三島南高校は2021年に21世紀枠でセンバツ高校野球大会出場の切符を手に入れた。そして、2022年4月に現在の富士高校に赴任した稲木監督は、ここでも野球普及活動を継続した。

野球普及のための3本の柱

稲木監督は前任の三島南高校の時から野球普及のための3本の柱を大切にしてきたという。1つ目は、野球というスポーツを知ってもらうために未就学児を対象とした野球交流会。2つ目は野球を日常的にやっていない小学生向けの野球体験会。彼らが野球の楽しさを知り、学童の野球チームに入りたいと思えるようにするためのものだ。そして3つ目は少年野球をやっている子どもたちを対象とした野球教室。「楽しい」から一歩進んで、子どもたちが「僕って野球が上手だよ」と言えるような、プレーをする上でのコツを掴むきっかけづくりをしている。それによって、高校野球を目指す子どもが増えてくれればと、稲木監督は期待する。

静岡県でも屈指の進学校である富士高校では、この3本の柱をベースに部員たちが小学生たちに野球と勉強を教えるといった試みも行っている。子どもたちは、野球が上手で勉強も教えてくれるお兄さんたちに憧れるのではないだろうか。

別れが悲しくて泣いている小学生

「憧れているかどうかは分かりませんが、先日、野球教室が終わったときに小学3年生の男の子が、教えてくれたお兄さんと別れるのが辛いと、声を出して泣いてしまったんです。優しく野球や勉強を教えてもらって、とても嬉しかったのでしょう」

この他にも野球体験会に参加した子どもが作文で、「サンタクロースに野球のグローブをくださいと頼んだ。野球少年団に入ってそのグローブを使いたい」と書いたという話もあったそうだ。

野球振興活動で生徒たちが成長

こうした活動を年に6回ほど行っているが、それぞれの会の内容について監督が大枠を決めると、あとは部員たちが自主的に内容や進め方を決めていくという。

「1年生はやはり最初は、子どもたちとどう関わったらいいか分からないんですね。ですから、毎年3年生が引退してしまう夏の大会の前に3年生が未就学の子どもたちに教える姿を見せるようにしています。その後は2年生が主体となって進めていくんですが、最初は我々教員が作る学習指導案のようなものを作ってもらいます。たとえば1時間のプログラムだったら、時間内でこういう内容で実施して、ここを注意して、ここを指導のポイントに置いてやる、というものをグループごとに提出させるんです。それを私がチェックして、『ちょっとこれは危ないんじゃないか』『これは子どもが飽きてしまうんじゃないか』といったやり取りをしてから本番に臨みます」

稲木監督が実施している野球振興活動は野球の普及のためであると同時に、生徒たちの成長のためでもあるという。

「最近では大学受験の前日に親が一緒にホテルに泊まるといった話は当たり前になっています。そうやって先回りして何でも大人がやってしまうことは、場合によって子どもたちの成長の機会を奪ってしまうんじゃないでしょうか。ですから野球部では、『この件ではお前たちが責任者だぞ』と言ってできるだけ任せるようにして、責任感や自分たちで計画したものを実行して運営していくという力を育てていきたいと思っています」

「人づくり」につながる富士高校版野球振興静岡県立富士高校硬式野球部の稲木恵介監督

進学校である富士高校では、グローバル社会を生きる上でリーダーとなれるような有益な人材を育成するといった目標を掲げている。また、稲木監督は部活動の運営方針を明確に生徒たちに指示している。

野球部員たちが内容を考えて作った、野球体験会の指導案

「『馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』ということわざがあるように、指導者は方針を立てて環境を整えることはできますが、やるやらないは自分たちが主体的に決めるしかない。野球部員は野球を頑張るのは当然ですが、それだけではなく、地域の野球に対して、あるいは野球界に対してどういう取り組みができるかといった大きな枠組みで考えるべきだというのを前提にしています」

この監督の考えのもと、部員たちは限られた時間の中で取り組むべき課題を見つけ、自分たちでその方法を考え実践している。こうした活動は地域の子どもたち、あるいは野球界だけでなく、部員たち自身の成長、将来にとっても重要だということに、富士高校の活動を見たイチロー氏も気づいたのではないか。

野球部の部員たちは、野球を見たこともない子どもや、まだそれほど語彙も多くない小さな子どもを相手に、どうコミュニケーションを取ればいいのか、何を優先して接したらいいのか、といったことを考え行動する経験を通して、人間力、コミュニケーション能力、相手を思う想像力などを学んでいる。稲木監督が行っているこの活動には、そうした人づくりという大きな意味があるということだろう。

少子化や野球離れによって1つの高校で野球チームを形成できるだけの部員が集まらなくなれば、やがて富士高校としてではなく、富士地区公立高校連合チームといった枠で出場せざるを得なくなりかねないと、稲木監督は高校野球の未来を危惧する。そうならないためにも、高校野球の主戦場となる都道府県大会を盛り上げていく必要があると説く。富士高校の野球部員たちは、子どもたちだけでなく、保護者が自分の子どもに、「こんな高校生になってほしい」「こんな学校で野球をやってほしい」と思えるような、そんな地域の目標となるようなチームづくりを目指して今日も野球振興の活動を続けている。

text by Kaori Hamanaka(Parasapo Lab)
photo by Shutterstock
写真提供:静岡県立富士高校 硬式野球部