Bizzarrini 5300GT Corsa Revival|古豪復活、その本気度

イタリアの伝説的なブランドが、今、復活を遂げようとしている。既に5300GTコルサ・リバイバルの24台製作を終了。新型モデルとなるジョットも生産開始が迫ってきた。日本もコルセ・オートモーティブを通じた正規輸入が決定し、伝説は今、我々の目の前に近づいてきている。

【画像】ロンドン郊外にある新生ビッザリーニの工場で、24台と発表された5300GTコルサ・リバイバルは既に製作を終了している(写真10点)

皆さんはビッザリーニと聞いて、何をイメージされるだろうか? 個人的には、ペブルビーチやヴィラデステのような、歴史あるコンクールデレガンスで稀に登場する、”伝説的ではあるが、詳しくはよく知らない”ミステリアスさであった。しかしそのイメージが、近年変わりつつある。2018年、レザム・アル・ロウミ氏が率いるペガサス・グループがビッザリーニのブランドを取得。”古豪復活”に向けて動き始めたからだ。

レザム氏の名前は、ご存知の方も多いかもしれない。2007年にアストンマーティン・ラゴンダ社の株式を半数以上取得した投資家グループのリーダーであり、アストンマーティン躍進の中で強いリーダーシップを取った人物として知られる。翌年登場した77台の限定車アストンマーティンOne-77は、その象徴ともいえる作品だ。

ペガサス・グループはロンドン、ジュネーヴ、クウェート、アブダビ、ドバイで事業を展開する一大オートモーティブグループだ。そんな彼らにより、まずは2020年11月にロンドンで、ビッザリーニ復活を発表。翌年1月には、5300GTコルサ・リバイバルの24台製作を発表。さらに2023年、つまり昨年9月には、創業者の名前を冠したハイパーカー『ジョット(GIOTTO)』の生産も発表している。さらに今年2月にはコルセ・オートモーティブを通じて日本導入されることを発表したのが、大まかな流れだ。それでは順を追って、もう少し詳しく紐解いていこう。

1926年6月6日にイタリアはフィレンツェの西、リボルノの少し南にある海岸の町、クエルチアネッラで生まれたジョット・ビッザリーニ。子供の頃から車の設計者を夢見てピサ大学では機械工学を学び、在学中である1952年には、トポリーノのシャシーを使用してフィアット500マッキネッタ・ベルリネッタを製作する。これを翌年の卒業論文で発表し好評を得たのち、アルファロメオに入社。ミラノのポルテッロ工場で3年間勤務した。

生まれた翌年の1927年にはミッレミリアがスタートしており、リボルノとピサで実際に目にしたことで、レースこそが運命であるとビッザリーニ少年は信じたそう。そんな彼はエンジニアとしてだけでなく、テストドライバーとしても頭角を現し、自らのビジョンを直接マシンに反映する能力を有していた。

1957年、500マッキネッタ・ベルリネッタに感銘を受けたというエンツォ・フェラーリの元へ移籍したビッザリーニは、各部門でその才能を最大限に発揮。250SWBをベースに、かの250GTOを作り上げる立役者となったのだ。しかしフェラーリでの栄光は短かった。1962年、エンツォがセールスマネージャーであるジェロラモ・ガルディーニを解雇したことに同僚らと反対し、結局、全員が解雇される”宮廷の反乱”が起きたのである。

フリーランスとなった彼は250SWBをベースとしたブレッドバンの製作、ランボルギーニ350GTに採用され、その後ムルシエラゴまで改良を重ねて搭載され続けたV12のエンジン設計を行った後に、レンツォ・リヴォルタとともにイソ・リヴォルタとイソ・グリフォを生み出す。これが1964年に自らの会社を興して開発した5300GTへと繋がり、大学卒業から10年、ビッザリーニの集大成ともいえるモデル誕生となったのだ。

1965年には5300GTでル・マンへ出場。レジス・フライシネットとジャン・ド・モルテマートのドライブにより、5リッター以上のクラスで見事優勝(総合9位)を果たす。翌年にはミッドシップのレーシングカー、P538を発表。それをベースとしたマンタがコンセプトカーとして製作されるも、時代背景もあり財政面は厳しく、1969年破産宣告を受け、ブランドとしてのビッザリーニ史はいったん幕を閉じた。その後、何度か復活を試みたオーナーが登場するも成功には結びつかなかったが、2018年にペガサス・グループがブランドを取得したことで、いよいよ古豪復活の道筋に光が差し込んだのであった。

まず新生ビッザリーニが行ったのは、その歴史に最大限の敬意を払うことだった。レザム氏は、5300GTコルサ・リバイバルの発表時にこんなコメントを残している。

「1960年代にジョット・ビッザリーニがそうであったように、私たちはあえて他とは違うことを行います。ジョットは、エンツォ・フェラーリやフェルッチオ・ランボルギーニらに匹敵するパイオニアでした。彼はその時代で最高のレーシングマシンを作ることを信条としていました。5300GTコルサ・リバイバルは、その卓越性と革新性を象徴し、この伝説的な名前に新たな関心と価値をもたらすでしょう」

つまりは5300GTをふたたび作ることで、ビッザリーニの偉大さと先進性を単なる伝説としてイメージで語るのではなく、リアルに伝えようとしているのだろう。バーチャルを多用する現代において、これは驚くべき熱意だ。だからか、その実現方法は生半可なものではなかった。何と当時の設計図を基に、ボディからエンジンに到るまでその全てを、ネジ1本に至るまでパーツを何ひとつ他から流用することなく、さらには現代の基準に適合させながら再設計したのだ。

そして続くジョットの在り方についても、発表前のレザム氏のコメントを引用しよう。

「ビッザリーニ・ブランドを復活させるには、現代的な車を作らなければ意味がありません。ジョルジェット・ジウジアーロとの歴史的な再会のおかげで、ビッザリーニが再び、革新、情熱、そして真に美しいデザインの代名詞になると信じています」

ご存知のように、イソ時代からジョルジェットはビッザリーニが作る車のデザインを担当してきていて、今回のジョットも、息子ファブリッツィオと共に営む、GFGスタイルがデザインを行った。5300GTの三角形のBピラーを現代的に再解釈するなど、過去と現在が調和したモデルとなっている。また、コスワースと共同開発した自然吸気V12エンジンは、ビッザリーニが設計したランボルギーニV12へのオマージュとなる。総排気量の6626ccは、ビッザリーニ生誕の1926年6月6日に由来するという凝りようだ(ジョットに関しては稿を改めて紹介したい)。

そんなビッザリーニを日本に正規ディーラーとして導入するのは『コルセ・オートモーティブ』。その母体は2023年に20周年を迎えたLMP CARSで、国際レース経験も豊富なレーシングドライバーの山岸 大氏が率いている。2024年9月には東京都港区に、最新のCIを反映したビッザリーニ専用ショールームもオープン予定となっている。

そんな山岸氏が、新生ビッザリーニと出会ったのは、3年ほど前のことだった。

「正規ディーラーとして、ビッザリーニを扱う決意をしたのは、レザムさんのビジョンに感銘を受けたことが大きいです。5300GTコルサ・リバイバルに関して申し上げますと、単なるリバイバルではなく、異常なほどのクオリティの高さに驚きました。車作りへのこだわりが強く、たった24台のためにここまでやるのかと、理想の高さも感じます。ドクター・ベッツなど、レザムさんがアストンマーティンを率いていた時代のスタッフも集結し、成功を確信すると共に、世界最高峰のハイパーカーをリリースする、ビッザリーニの将来性にワクワクしたのです」

長年スーパーカー業界を取材してきた筆者は、復活あるいは新規立ち上げで華々しくアドバルーンを上げ、その後、いつの間にかフェードアウトしてきたブランドをいくつも見てきた。しかしビッザリーニは、それらとは異なる本気度の高さ、山岸氏の言葉を借りるならば”異常なほどの”こだわりが伝わってくるではないか。山岸氏によればコルセ・オートモーティブを通じて、5300GTコルサ・リバイバルが日本にやってくる日も遠くないそうで、まずはその”本気度”を目にする日が楽しみで仕方ない。

文:平井大介 写真:ビッザリーニ

Words: Daisuke HIRAI Photography: BIZZARRINI