まさかの“不発”…プロ野球、移籍先で戦力外通告を受けたFA戦士6人。裏目に…

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 毎年、シーズンオフに大きな注目を集めるのがフリーエージェント(FA)市場だ。FA権を行使しての移籍は、この世界で長期的に活躍した選手の証とも言える。しかし、FA加入後も変わらぬ存在感を示す選手がいる一方で、大きく成績を落とす選手も多く存在する。そこで今回は、移籍先で戦力外通告を受けたFA戦士を紹介したい。

 

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井納翔一

投打:右投右打

身長/体重:188cm/94kg

生年月日:1986年5月1日

経歴:木更津総合高 - 上武大 - NTT東日本

ドラフト:2012年ドラフト3位

 

 2桁勝利の実績もある井納翔一。FA移籍後は成績を残せないまま、現役を引退した。

 

 関甲新学生野球リーグの上武大では、4年時に2季連続で最優秀防御率を獲得。その後は社会人野球のNTT東日本でプレーし、ドラフト3位で横浜DeNAベイスターズに入団した。26歳でプロ入りという、まさにオールドルーキーだった。

 

 

 プロ2年目には、早速結果を出した井納。同年は25試合に登板し、11勝9敗と2桁勝利をマーク。防御率こそ4.01だったが、エース格として低迷するチームを支えた。

 

 しかし、2015年以降は勝ち星こそ挙げるものの、安定感のある投球はできず。そんな中、2020年シーズンにFA権を取得し、同年オフには読売ジャイアンツへの移籍を決断。2年契約を交わした。

 

だが、移籍1年目は開幕ローテーションに入るも、わずか5試合の登板で防御率は14.40という結果に。翌2022年も7試合の登板に終わると、オフに戦力外通告。わずか2年で厳しい現実が叩きつけられ、同年限りでの現役引退を表明した。

小林宏之

投打:右投右打

身長/体重:185cm/85kg

生年月日:1978年6月4日

経歴:春日部共栄高

ドラフト:1996年ドラフト4位

 

 プロ通算75勝の実績を残した小林宏之は、FA移籍先も含め、2度戦力外通告を受けている。

 

 春日部共栄高を卒業し、ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズに入団。プロ2年目に一軍のマウンドを経験すると、2002年はリリーフを中心に58試合に登板し、防御率2.53という数字を残した。

 

 

 翌2003年はシーズン中盤から先発を務め、初の規定投球回をクリア。同年は50試合登板で10勝を挙げ、着実にチームの中で存在感を発揮していた。

 

 そんな中、2010年にはメジャー移籍を希望してFA権を行使。だが、獲得球団は現れず、かねてからラブコールを送っていた阪神タイガースと、2年契約で合意した。

 

 移籍初年度は勝ちパターンの一角として期待され、42試合に登板して22ホールドポイント(1勝21ホールド)、防御率3.00とまずまずの数字。しかし、救援失敗が続いて二軍降格となるなど、成績以上に不安定な投球が目立った。

 

 翌年は先発再転向を図ったが、まさかの一軍登板なしに終わり、オフに戦力外通告。わずか2年でチームを去ると、独立リーグでのプレーを経て2014年に埼玉西武ライオンズへ入団したが、15試合登板で防御率7.94に終わり、自身2度目の戦力外通告を受けた。

陽岱鋼

投打:右投右打

身長/体重:184cm/89kg

生年月日:1987年1月17日

経歴:福岡第一高

ドラフト:2005年高校生ドラフト1巡目

 

 昨季から日本球界に復帰し、プレーを続けている陽岱鋼。戦力外の経験をバネに、新天地で汗を流している。

 

 台湾生まれの陽は、野球留学で福岡第一高へ。高校通算39本のアーチを描き、将来性を買った北海道日本ハムファイターズから高校生ドラフト1巡目で指名を受けた。

 

 

 プロ2年目の2007年に一軍デビューを果たすと、2011年には初の規定打席をクリア。同年は141試合の出場で打率.274、6本塁打、36打点、19盗塁とブレイクの1年になった。

 

 2013年には全144試合に出場し、打率.282、18本塁打、67打点、47盗塁をマーク。塁上でも存在感を発揮し、同年のパ・リーグ盗塁王に輝いた。

 

 走攻守に渡る活躍で、いつしか日本ハムに欠かせない存在となった陽。2016年の日本一に貢献したのち、同年オフにFAで読売ジャイアンツと5年契約を結んだ。

 

 しかし、コンディション不良なども影響した結果、巨人での5シーズンはいずれも規定打席に届かず。2021年はわずか7試合の出場にとどまり、同年オフに本人の希望で退団となった。

 

 その後はアメリカ独立リーグを経て、昨季からオイシックス新潟アルビレックスBCでプレー。38歳で今シーズンを迎えた陽は、日本球界でもう一花咲かすことができるのか。

福田秀平

投打:右投左打

身長/体重:182cm/77kg

生年月日:1989年2月10日

経歴:多摩大聖ヶ丘高

ドラフト:2006年高校生ドラフト1巡目

 

 大争奪戦の末に千葉ロッテマリーンズへFA加入した福田秀平。移籍後は“まさか”の連続でチームを去ることとなった。

 

 多摩大聖ヶ丘高では1年時からレギュラーを掴み、スイッチヒッターにも挑戦。世代トップクラスの身体能力と将来性が高く評価され、高校生ドラフト1巡目で福岡ソフトバンクホークスに入団した。

 

 

 プロ5年目の2011年には、97試合に出場。同年は打率こそ.252だったが、22個の盗塁を成功させるなど、機動力で一軍の貴重な戦力となった。

 

 その後はスタメン出場こそ多くなかったが、代走や守備固めといった役割でチームに貢献。2019年にFA権を行使すると、人的補償が不要な「Cランク」という背景もあり、6球団の争奪戦に。

 

 最終的に4年契約でロッテ入りを決断した福田。しかし、2020年シーズンの開幕前に右肩に受けた死球が災いし、満足のいく結果は残せず。

 

 その後もけがとの戦いが続き、2022年オフには2年前の死球の後遺症を取り除くため、患部の手術を敢行。契約最終年の2023年はわずか3試合の出場にとどまり、同年オフに戦力外通告を受けた。

 

 2024年からはファーム球団のくふうハヤテベンチャーズ静岡でプレー。しかし、再び故障に悩まされ満足に出場することが出来ず、同年限りでの現役引退を決断した。

森福允彦

投打:左投左打

身長/体重:172cm/70kg

生年月日:1986年7月29日

経歴:豊川高 - シダックス

ドラフト:2006年大学生・社会人ドラフト4巡目

 

 2011・12年の活躍は凄まじいものがあった森福允彦も、FA移籍後に戦力外通告を受けた1人である。

 

 豊川高時代から能力の高さを遺憾なく発揮し、2年夏の愛知県大会では56イニング連続無失点という投球を披露。高校卒業後はシダックスで野球を続け、ドラフト4巡目で福岡ソフトバンクホークスに入団した。

 

 

 プロでは中継ぎとして確固たる地位を確立した。2011年のレギュラーシーズンは60試合に登板し、38ホールドポイント(4勝34ホールド)、防御率1.13をマーク。

 

 また、同年の日本シリーズ第4戦では無死満塁の場面で登板し、無失点で切り抜ける圧巻リリーフ。ソフトバンクの鉄壁リリーフ陣を形成し、チームの日本一に大きく貢献した。

 

 翌2012年は前年を上回る65試合に登板し、26ホールドポイント(2勝24ホールド)、防御率1.39を記録。その後は浮き沈みもありながら、移籍前年の2016年も50試合に登板し、防御率2.00をマークしていた。

 

 しかし、対左打者のワンポイント起用が多かったこともあり、異なる環境を求めて読売ジャイアンツに3年契約で移籍した。

 

 移籍1年目の2017年はまずまずの成績を残した一方、翌年はわずか2試合の登板で防御率13.50と大きく低迷。本来とは程遠い投球が続くと、2019年オフに戦力外となり、同年でユニフォームを脱ぐ決断をした。

木村昇吾

投打:右投左打

身長/体重:183cm/78kg

生年月日:1980年4月16日

経歴:尽誠学園高 - 愛知学院大

ドラフト:2002年ドラフト11巡目

 

 FA宣言後、獲得球団が現れないという出来事を経験したのが、広島東洋カープなどでプレーした木村昇吾である。

 

 尽誠学園高では、3年夏に甲子園を経験。その後、愛知学院大でバッティングに磨きがかかり、ドラフト11巡目という指名ながら横浜ベイスターズ(現:DeNA)に入団となった。

 

 

 しかし、横浜では在籍5年間でわずか7安打と結果を残せず。2007年オフにトレードで広島の一員となった。

 

 新天地では一軍の貴重な戦力となり、移籍4年目の2011年はキャリアハイの106試合に出場。同年は打率こそ.259だったが、37の犠打を成功させた。

 

 レギュラーではなくとも、いぶし銀のプレーを見せ続けていた木村は、2015年オフにFA権を行使。ところが、他球団からオファーが来ることはなかった。

 

 その後、埼玉西武ライオンズの春季キャンプにテスト生として参加し、見事合格。FA宣言した選手がテスト入団となるのは、プロ野球史上初の事例だった。

 

 ただ、移籍1年目の2016年6月に右膝前十字靱帯を断裂。この故障が大きく影響し、同年10月に早くも戦力外通告を受けた。

 

 育成選手として踏みとどまった移籍2年目は、6月に支配下復帰したものの、同年は一軍出場がわずか3試合に。シーズン終盤に2年連続の戦力外となり、NPBを去ることになった。

 

 

【了】