義足の陸上競技選手として初めてパラリンピックでメダルを獲得した山本篤が27日、神戸市内で引退記者会見を開いた。

本人の言葉と写真でその功績を振り返る。

引退を決めた理由とは?

「決めた理由は、本当にシンプルなこと。自分自身が今までずっと心に決めてきた言葉があります。それは、“可能性がある限り、チャレンジをする”。自分自身が可能性を見失ったタイミングで選手を引退しようという気持ちでここまでやってきました」

2017年10月から山本の所属スポンサーを務める新日本住設が主催した記者会見。山本はプロアスリートとしても後輩たちに大きな背中を見せ続けた

「東京パラリンピックが終わった後、もっともっと記録を伸ばせるんじゃないか、7mを跳べる可能性があるんじゃないかという気持ちでやってきましたが、なかなかうまくいかず、ケガに苦しめられ、最後(世界パラの走り幅跳び)は自分自身のジャンプができたかなと思うんですけども、あれが精一杯でした。

自分の中で可能性がなくなったタイミングで引退と思いましたので、今回のタイミングで引退を発表させていただきました。

僕自身は今シーズンいっぱいやっていこうと思っていましたけど、シーズン途中ですけど、やはり“自分に嘘はつけない”。シーズン中ではあるんですけど、引退という決意をしました。

これまで22年間、陸上人生を歩んできて、いろいろありましたけど、僕にとっては、人生を楽しくする遊びだったのかな。楽しく遊んで、ここまでいろんな人に応援してもらえて、すごくいい陸上人生を歩んでこられたと思っています」

家族と話し合い、世界パラの試合翌日である20日に引退を決断したという。

「子どもは『走ってる姿、跳んでいるを見たい』『辞めちゃいけない』とまだ言っています。

でも、自分自身は、やっぱり可能性がないと思ったので、プロのアスリートとしては失格。この状況で続けていても楽しめないなと思って、終わりなのかなと思いました」

高校2年のとき、バイク事故により左足大腿部を切断。義肢装具士になるための専門学校で競技用義足と出会ったことを機に、陸上競技を始める。その後、夏季パラリンピックには主に走り幅跳びの選手として、2008年の北京から4大会連続出場。2021年の東京パラリンピックでは、自己ベストの6m75をマークして4位だった。

世界の競技レベルが高まり、メダル獲得には7m越えが求められるようになった。山本も記録を追い求める姿勢を貫くが、腰の故障が長引いた影響もあり、2023年の「パリ2023世界パラ陸上競技選手権大会」は8位に沈んだ。試合後、「楽しくない。引退の可能性もある」と語っていた。

「去年の世界選手権の後には、心が折れていました」と山本。

「このまま終わるのはどうなのかっていう気持ちもあって、自分の中で何もすっきりしないまま終わってしまうと思って、『来シーズン(2024年)いっぱい頑張る』と決めました」

光明が差し始めたのは年明けだったという。身体の状態は100%、走りのスピードは98%まで戻った。

そして、迎えた「神戸2024世界パラ陸上競技選手権大会」では、シーズンベストの6m48をマークした。

「世界パラは、世界との勝負の中で指標になると思っていました。パリパラリンピックの出場権がかかっていたので、その出場権を取るためにやってきました。ですが、出場権は取れず、優先順位の高い4位以内にも入ることができずに終わった。

その結果を踏まえて、その日の夜、自分でいろいろ考えました。『もう少しできたんじゃないか』という思いがないと言ったら嘘ですし、もう少し続けたら記録は伸びたと思います。でも、伸びたところでどこまでいけるのかを考えたときに、7mは見えなかった。7mが見えていれば、続けていたと思います」

パラリンピック出場ではなく、パラリンピックのメダル獲得にこだわったゆえの決断だった。

最後の大会となった世界パラ。T63大腿義足クラスの男子走り幅跳びには日本から山本のほかに、近藤元(写真左)と稲垣克明(写真右)が出場した。

「義足クラスは人数が増えて盛り上がってきている。人が増えれば増えるほど競技レベルも上がっていくし、今までとは考えられないレベルになってきているので、日本もどんどんレベルアップしていかなければならないと思います」

22年間の競技生活で示した後輩たちへの道しるべ

山本は2008年の北京パラリンピックの走り幅跳びで銀メダルを獲得。日本パラ陸上初の義足のメダリストになった。

当時は報道も多くなかった。

「北京パラリンピックのころ、メディア対応のセッションで社会部の記者が来た。

その後は、変わっていき、東京パラリンピック開催が決まって以降、メディアに大きく報道されるようになった。
僕はスポーツ選手なので、スポーツ欄に載ることがうれしかった」

元世界記録保持者でもある。2016年5月の「日本パラ陸上競技選手権大会」では、当時の世界記録を更新する6m56の大ジャンプを披露した。

「自分の中で、世界記録を出せる日がくるとは思っていなかった。

そして、歴代の選手たちが跳んできた記録を超えることができた瞬間でもありました。あの大会は忘れられません」

2016年のリオパラリンピックでは三つ巴の名勝負を繰り広げた末、銀メダルを手にした。

「苦い思い出があるのは、リオ大会です。

金を目指し、金が獲れるような状況で、自分自身もすごく調子がよくて。そんな大会で銀メダルに終わってしまったのはすごく悔しかった。

世界記録を出せたし、世界選手権で二度チャンピオンになれた。でも、パラリンピックで金メダルが獲れなかったことは、少し悔しいな、と」

一方、競技生活のいい思い出は、「国際大会に行くと着けるアクレディテーションが大量にあること。海外の試合にたくさん出られたのが本当によかったと思います」。

2018年の平昌パラリンピックにはスノーボード日本代表として出場。夏冬二刀流のパラアスリートとして大きな可能性を示した。

「今はSNSが発達し、情報を取りにいけば、『義足で何ができるのか』『どんなことをやってる人がいるんだろう』を知ることができる。

でも、僕が義足になった当時、『スノーボードをしたい』と言っても、『スノーボードはできるかわからない』と言われた。

僕が陸上だけでなく、いろいろチャレンジすることで、足がない状態で生まれてきたり、途中で足を切断しなければならなくなってしまった人たちに『チャレンジしたい』という気持ちになってもらえたら、嬉しいなと思います」

今後の活動は?

「これからは、一つは指導者として、いま見ている選手が最高のパフォーマンス世界ができる選手になるように指導していきたい思いがあります。

それと同時に、今までもやってきましたけど、いろんなイベントに参加して、義足になってしまった方々に向けてのクリニック、パラスポーツ、パラリンピックをもっと知ってもらうための活動をしていきたいです。

そして、ゴルフを、もう一度全力で取り組んでみたい。自分自身がどこまでやれるのか。今までは陸上やりながらゴルフという形でしたけど、今度の僕自身のチャレンジとしては、ゴルフをもう一度しっかりやっていきたいなと思っています」

text by Asuka Senaga
photo by X-1, Asuka Senaga