『吾輩は猫である』は、日本文学を代表する作家、夏目漱石の代表作の一つで、人間の滑稽さや魅力を猫視点でユーモラスに表現している作品です。しかし約35万字に及ぶ長編であったり、一文が長くわかりづらかったりすることから、読むのをちゅうちょしている人もいるでしょう。

そこで本記事では『吾輩は猫である』について、250字ほどの短いあらすじと、章ごとの詳しいあらすじ、登場人物や結末に、作者が伝えたかったことなどを紹介。作者・夏目漱石の生涯や死因についても解説します。

※本記事はネタバレを含みます

  • 夏目漱石『吾輩は猫である』のあらすじ

    夏目漱石『吾輩は猫である』のあらすじやポイントを紹介します

夏目漱石『吾輩は猫である』のあらすじを短く要約

『吾輩は猫である』は1905~1906年(明治38~39年)にかけて、俳句・文芸雑誌『ホトトギス』で連載された、全11章から成る物語。夏目漱石の記念すべき最初の長編小説です。

まずは全体のあらすじを、250文字程度で簡単に確認しておきましょう。

捨て猫の「吾輩」は、中学教師の珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の家に住みつきます。
嫌がらせを受けたり、泥棒に入られたりといつもせわしい珍野家。吾輩は苦沙弥を取り巻く人間模様を眺めながら、人間の見栄や競争心が見え隠れするところなどを滑稽に思います。
しかし苦沙弥と暮らし、友人たちとの雑談をそばで聞いているうちに、吾輩は人間に親しみを抱くようにもなるのです。
ある日、元教え子や元書生の結婚が決まり、苦沙弥たちはビールで祝杯をあげます。吾輩は人間のまねをしてこっそりとビールを飲んで酔っ払い、甕(かめ)に落ちて死んでしまうのでした。

『吾輩は猫である』の冒頭とは? 「名前はまだない」の続き

『吾輩は猫である』は、冒頭の一文である「吾輩は猫である。名前はまだ無い」も非常に有名です。ここではもう少し、続きを見てみましょう。

その独特な世界観にグッと引き込まれるはずですよ。

吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始(みはじめ)であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶(やかん)だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪(かたわ)には一度も出会(でく)わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽(む)せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草(たばこ)というものである事はようやくこの頃知った。

『吾輩は猫である』の主な登場人物・キャラクター

『吾輩は猫である』には、多くの猫や人物が登場します。物語の流れをつかむためにも、主なキャラクターを覚えておきましょう。

吾輩(わがはい)

珍野家に住んでいるオス猫。ある書生の気まぐれで拾われ、親と兄弟のもとから引き離されて捨てられた後、苦沙弥の家にたどり着く。名前はなく「吾輩」が一人称。三毛子に恋をしていた。

珍野 苦沙弥(ちんの くしゃみ)

吾輩の飼い主で、中学校の英語教師。妻と3人の娘がいる。胃が弱く神経衰弱に陥っている。また偏屈で頑固。作者の夏目漱石がモデルといわれている。

迷亭(めいてい)

苦沙弥の友人で美学者。ホラ話が好きで口達者。よく苦沙弥の家を訪ねる。

水島 寒月(みずしま かんげつ)

苦沙弥の元教え子で理学士。バイオリンが趣味の好男子。

越智 東風(おち とうふう)

寒月の友人で文学美術好きの新体詩人。

多々良 三平(たたら さんぺい)

元々は珍野家の書生で、法科大学を卒業後はある企業の鉱山部に勤めている。駆け出しの実業家でもある。

金田 鼻子(かねだ はなこ)

苦沙弥の近所に住む実業家の妻。巨大な鼻が特徴ゆえに吾輩から「鼻子」と呼ばれている。

金田 富子

金田家の令嬢。ハイカラで自慢たらしい性格。

三毛子

二絃琴(にげんきん)の師匠のところで飼われている、美しい猫。吾輩のことを「先生」と呼ぶ。

『吾輩は猫である』のあらすじを最後まで、章ごとに詳しく紹介

ここでは、『吾輩は猫である』のあらすじを、章ごとに詳しく解説していきます。最後にどうなったのか、結末もまとめています。

一.珍野家で飼われることになった吾輩

ある書生の気まぐれで親と兄弟のもとから引き離されて、笹原に捨てられたオス猫の吾輩は、命からがら珍野家にたどり着きます。

下女に追い出されるも、一家の主である苦沙弥に許されて、珍野家で飼われることになった吾輩。吾輩は、物語の最後まで名前をつけられません。

吾輩は、珍野家で過ごし人間を観察すればするほど、人間はわがままな生き物だと感じます。

二.三毛子との別れ

吾輩は、近所に住むメス猫・三毛子のところへ遊びに行きます。三毛子は美しく、また吾輩に敬意を表して「先生」と呼んでくれるため、一緒にいて心地良い存在でした。その日、吾輩は三毛子との会話を楽しんで帰宅します。

後日、三毛子の家を再び訪問した吾輩は、三毛子がどうやら風邪で寝込んでいると知ったのです。

帰宅すると、迷亭と寒月が珍野家にやってきます。苦沙弥たちの会話を聞きながら、人間は滑稽な生き物だと感じる吾輩。会話の中に人間の名誉や競争の念が見え隠れすることに対して、気の毒とすら思います。

つまらなくなり具合の悪い三毛子の様子を見にいった吾輩は、三毛子が風邪をこじらせて死んでしまったことを知ります。そして外出する気も無いほど落ち込んで、引きこもるのでした。

三.金田鼻子が珍野家を訪れる

苦沙弥と迷亭が雑談を楽しんでいると、近所に住む実業家・金田の妻が突然、珍野家を訪問してきました。大きなかぎ鼻を持つ金田の妻を、吾輩は「鼻子」と呼ぶことにします。

鼻子はぞんざいな態度で、寒月とはどういう人物なのかを苦沙弥に問います。

どうやら鼻子の娘である富子と寒月は、互いが気になっている様子。しかし鼻子はその結婚に否定的で、寒月が博士にならなければ富子と結婚させないと主張します。

苦沙弥と迷亭は、鼻子の横暴な態度が気に入りません。また鼻子も、実業家の妻である自分に対する苦沙弥たちの態度を生意気だと感じ、こらしめようと珍野家へ嫌がらせをすることにしたのです。

四.鼻子たちの依頼で、藤十郎が珍野家を訪れる

苦沙弥と迷亭と旧知の仲である鈴木藤十郎が、金田夫妻の使いで珍野家を訪ねます。藤十郎は「寒月と富子、当人同士の気持ちを尊重すべきだ」「結婚を応援してあげては」という旨を述べ、苦沙弥を説得しにきたのです。

藤十郎が苦沙弥を説得し、苦沙弥も「実業家は嫌いだが、確かにその娘には恩も恨みもない」「当人同士が好いた仲なのであれば…」という旨を考えている途中、迷亭が珍野家を訪ねてきます。藤十郎は迷亭に話を折られないよう、なんとか話題を脱線させようと試みます。

五.珍野家に泥棒が入る

珍野家に泥棒が入り、もらい物の山芋と羽織、苦沙弥の妻の帯などが盗まれます。吾輩は泥棒を目撃したものの、何もできませんでした。

泥棒に気付いていたにもかかわらず逃してしまった吾輩は、名誉挽回とばかりにねずみを捕まえて苦沙弥たちを驚かせようと決意するものの、失敗に終わってしまいました。

六.苦沙弥、友人らと恋愛話をする

迷亭と寒月が苦沙弥の家を訪れ、寒月が結婚のために取り組んでいる博士論文の話題が上がります。そして話題は、それぞれの恋愛話へと移っていきました。

迷亭は、旅先で知り合った初恋の女性がはげていたエピソードを語ります。さらに寒月の友人・東風が加わり、皆が女性の話について盛り上がっている姿を吾輩は眺めていました。

七.運動を始める吾輩

運動しないものは下等とみなされていることを知った吾輩は、カマキリやセミをとる運動や、松滑り(吾輩によると木登りの一種)などを始めました。

運動で汗をかいて気持ち悪くなったため、銭湯に忍び込んだ吾輩は、大浴場で大勢の人間の姿を観察します。

八.近所の中学生の仕業で、珍野家にボールが飛んでくる

近所にある中学校の生徒たちは、度々いたずらをして苦沙弥をからかっていました。そのうち、珍野家に野球ボールが飛んでくるようになります。

ボールを拾うため珍野家に無断で侵入した少年を捕まえた苦沙弥。倫理の先生に対し、「無断で珍野家に入らないように」「ボールを取るときは断りを入れて、表から来るように」と、生徒を指導することを約束させるのです。

ところが、今度は生徒が日に何度もボールを取りに家を訪問するようになり、苦沙弥は疲労を募らせていました。

九.珍野家に入った泥棒が捕まる

迷亭が伯父を連れて珍野家を訪ねてきます。伯父の帰宅後も、苦沙弥と迷亭が哲学者の八木独仙などの話題で盛り上がっていたところ、来客があります。

警視庁刑事巡査が、珍野家に入ってきた泥棒と一緒にやってきたのです。巡査は苦沙弥に、翌日に警察署まで来るよう伝えて帰っていきました。

十.鼻子の娘・富子に恋文が送られる

苦沙弥が警察署から帰宅すると、苦沙弥の生徒・古井武右衛門(ふるいぶえもん)が訪ねてきました。

武右衛門は友人たちとともに、富子をからかおうと、うその恋文を送ったことを苦沙弥に打ち明けます。武右衛門の名前で恋文を送ったため、バレて退学になるのではという不安から苦沙弥に相談に来たのです。武衛右門の相談を冷たくあしらう苦沙弥の姿を、吾輩は面白がって見ていました。

十一.元教え子、そして元書生の結婚と吾輩の死

珍野家に迷亭と寒月、東風、独仙が集まり会話を楽しんでいる中で、寒月が故郷へ戻った際に、地元の女性と結婚したことを報告します。最初は驚いた苦沙弥ですが、そのうちに皆と結婚論、女性論などで盛り上がります。

そんな折に、三平がビールを持って珍野家を訪れます。三平は、なんと富子と結婚することを報告するのです。そして6人は、三平が持ってきたビールで祝杯をあげます。

夜も遅くなり、吾輩は人間たちのまねをして、三平の持ってきた飲み残しのビールを飲みました。酔っぱらった吾輩は足を踏みはずし、甕(かめ)の中に落ちてしまいます。

必死でもがくものの、途中抵抗を諦め「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい」と言って吾輩は死んでいきました。

『吾輩は猫である』の物語が作られた背景を解説

  • 夏目漱石『吾輩は猫である』の執筆背景

    『吾輩は猫である』はどのようにして生まれたのでしょうか

『吾輩は猫である』は、夏目漱石の最初の長編小説。高浜虚子(たかはまきょし)の勧めで執筆され、1905~1906年(明治38~39年)にかけて、俳句・文芸雑誌『ホトトギス』で発表されました。教師、英文学者だった夏目漱石が、小説家へと舵を切る転機をもたらした作品です。

当初は一回のみの読み切り作品の予定でしたが、評判が良く、最終的には全11回連載されました。

苦沙弥は夏目漱石自身、そして吾輩は夏目漱石の家に迷い込んできた黒猫がモデルといわれています。

『吾輩は猫である』を読んだ感想と、夏目漱石が伝えたいこと

『吾輩は猫である』を通して、作者の夏目漱石は何を伝えようとしていたのでしょうか。ここでは感想と、考察を紹介します。

人間の滑稽さ

『吾輩は猫である』は、苦沙弥を取り巻く人間模様から、人間の滑稽さをユーモラスに描いています。

作中では競争心や見栄、世間体などを気にする人間の姿を見た吾輩が、人間をバカにするシーンが登場します。

猫の視点から描くことで、人間社会の滑稽さが強調されるのではないでしょうか。人間でも疑問に感じることを、猫が皮肉を交えながら語るところが、この作品の面白さだと言えます。

人間の魅力

はじめこそ一歩引いたところから、人間は愚かな生き物だと思っていた吾輩。ところが苦沙弥を観察し、友人たちとのやり取りをそばで聞くうちに、人間の良いところを認めたり、親しみを抱いたりするようにもなります。

物語の後半では、吾輩が苦沙弥の心中を詳細に述べ、これが読心術であると主張する箇所があります。しかしそれは読心術と言うよりも、長い時間を一緒に過ごすうちに、吾輩が人間の考え方に近づいたと読み取ることもできます。

最後のシーンでは、吾輩は人間のまねをして酒を飲み、人間が死ぬときと同様に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお経を唱えて死んでいきました。

これらのことから、夏目漱石が「滑稽なところも含めて人間は魅力的な生き物だ」と、猫視点で伝えていると考えられないでしょうか。

時代の移り変わりや金権主義への皮肉

また時代の西洋化、近代化といった移り変わりに対する疑念を、夏目漱石は『吾輩は猫である』を通して伝えているのではないかとも考えられます。

作中では衣類に関して、西洋人が礼服を着ているから日本人も着ている、とあります。

また西洋人のやり方は「積極的」と言うが、結局は我意を通して他者に介入し、永遠に満足ができないものであり、昔の日本人の「自分以外の状態を変化させて満足を求めるのはなく、その前提の上で安心を得る方法を講じる」というやり方の方が偉い、という旨の記載があります。

金権主義の実業家である金田家の人々を、苦沙弥たちが批判するシーンも数多く見られました。

このように作中で、当時の日本に対する皮肉を述べているシーンがいくつか見られるのです。西洋の真似事をするばかりではなく、日本は独自に自分たちのやり方を確立していくべきだ、金や権力に屈するのではなく大切なものを見極めるべきだといったことを、夏目漱石は作品を通じて伝えたかったのかもしれません。

作者の夏目漱石とは? その生涯や死因、脳の行方など

夏目漱石(なつめそうせき)は、明治から大正時代にかけて活躍した小説家・英文学者です。

徳川慶喜が大政奉還を行い、江戸時代が終わる年である1867年(慶応3年)、現在の新宿区に生まれ、1916年(大正5年)にこの世を去りました。

本名は金之助であり、漱石は「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」という四字熟語をもじったペンネームで、「失敗を認めず、負け惜しみする人」という意味があるといわれています。

夏目漱石は上に兄が4人、姉が3人おり、生まれてすぐに養子に出されます。しかし9歳の時に義父母が離婚したために、実家に戻っています。

1890年に現在の東大文学部である帝国大学文科大学に入学、1893年に卒業した夏目漱石は、愛媛の松山中学校や熊本の第五高等学校の講師として働きました。

1900年には文部省から命じられてイギリスに留学します。1903年に帰国すると、第一高等学校と現在の東京大学にあたる東京帝国大学の英文科の講師になりました。夏目漱石は留学中や東京帝国大学で働いている際に、神経衰弱に陥っています。

講師として働く傍ら、1905年には『吾輩は猫である』、続いて『坊っちゃん』『草枕』などを発表して注目を浴びます。

1907年、40歳になった夏目漱石は教職を辞めて朝日新聞社に入社し、専属作家になります。晩年における代表作『こころ』の新潮文庫版は、2021年時点で新潮文庫の累計発行部数ランキングで1位(750万部以上)となるなど、日本を代表する作家です。

1916年の12月に胃潰瘍のため亡くなり、雑司ヶ谷霊園に埋葬されました。

夏目漱石の脳は、東大の医学部にホルマリン漬けで保存されています。日本人男性の脳の平均は大体1,350gですが、夏目漱石はそれよりも若干重く1,425gありました。

夏目漱石の1,000円札は、1984年から2007年まで、20年以上もの間発行されていました。

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猫視点だからこそ、人間の滑稽さや魅力が強調されている作品

『吾輩は猫である』は人間の滑稽さを、猫の視点から痛烈に表現している作品です。

しかし吾輩の語る人間への感想は、決してマイナスなものだけではありません。愚かで滑稽な部分も含め、人間にも愛すべき点があるのだということを、この作品は気付かせてくれているのかもしれません。

※作品内には、現在では不適切とされる可能性を持つ表現がありますが、本記事では基本的に、作中の表現を生かした形で記載しています