フジテレビ系音楽番組『SHIONOGI MUSIC FAIR(ミュージックフェア)』(毎週土曜18:00~)が、1964年の放送開始から今年で60周年、放送回数3,000回を迎え、これを記念した特別企画を3月2日から9週にわたって放送する。
このフジ最長寿番組に半世紀にわたって携わるのが、現在もエグゼクティブプロデューサーとして腕を振るう石田弘氏(80)。同局の港浩一社長とともに『とんねるずのみなさんのおかげです』を立ち上げ、石橋貴明が扮するキャラクター「ダーイシ」のモデルとしても知られる名物Pだ。
日本の音楽業界とともに歩んできた石田氏は『ミュージックフェア』をどのように作り、精神が受け継がれてきたのか。その歴史を振り返るとともに、特別企画のブッキング秘話、今後の番組やフジテレビへの期待など、たっぷりと話を聞いた――。
ドラマやビデオ制作でも音楽知識を生かす
――『ミュージックフェア』にはどのような形で関わるようになったのですか?
最初はドラマの第一制作部に配属されて、『三匹の侍』のADをやってたんだよ。予告編を作るんだけど、当時アートシアターでモダンジャズを使ったフランス映画が流行ってたから、殺陣のシーンでバサッと斬って、チャーリー・ミンガスをBGMにかけたら、ディレクターに「お前何やってんだ!」って怒られたり、そんなことばっかりやってた(笑)。それとは別に、自分の上には太地恒夫さんというバラエティとかいろんなショーをやる親分がいて、ドラマをやりながらそこでディレクターになっていくんだけど、フジの制作部門がプロダクション化するんだよ。
でも、プロダクションに行ってもしょうがないからって、事業局にできたビデオ制作部ってところに行ったんだね。そこで「何か作れ」って言われるんだけど、当時のビデオなんて「How toモノ」か「裸モノ」しかない。著作権の問題があって曲も使えないから、簡単な歌を考えて、下着のモデルだった人を呼んできて、3人組作って歌わせて、「ビートポップス」にかけて「ヌードポップス」なんてビデオを作ってたんだ。
そういうしてる間に、親分がフジテレビを辞めてブラジルに行っちゃったからビデオ制作部にいてもしょうがないなと思って、フジプロ(ダクション)に行ったわけ。そのときに『ミュージックフェア』にいたチーフADが体調を崩してできなくなったから、譜面が読めて、セットのことも分かってるし、音楽に強いということで、代わりにやってくれって言われたの。それが『ミュージックフェア』に初めて絡んだときで、27歳だったかな。
――50年以上前から携わってきたんですね。
いや、ところがなんだよ。担当ディレクターが忙しくて、「デューク・エイセスの演出考えといてくれよ」って言われたから、カット割り作って、スタジオセットも図面に書いて、アレンジのテープも作って、それを全部入れた封筒をディレクターのデスクに置いたら、夜中に電話かかってきて「失くしちゃったから、もう1回作って」って言われたの。それでもう俺は「あんたとなんか仕事したくない!」ってブチ切れて、朝10時くらいからドライリハーサルが始まるんだけど、クビになってもいいと思って行かなかったね。
――デューク・エイセスの演出は幻に…。
自らの企画番組で音楽業界の人脈構築
そしたら、吉永小百合さんの旦那さんで、フジプロ専務の岡田太郎さんに「今編成が、日曜日の競馬中継の時間の後に、若い世代のサラリーマンを対象にした生放送をやりたがってるから、それを考えろ」って言われて作ったのが『リブ・ヤング!』っていう番組。そこに、ラジオで一番人気があったキンキン(愛川欽也)を呼んできて、『平凡パンチ』を辞めた今野雄二を呼んできて、LF(ニッポン放送)で番組やってたビーバーを呼んできて立ち上げたの。俺は28歳で若すぎるからって、『ミュージックフェア』もやってた林良三さんがプロデューサーでついてくれて、音楽情報がウケたり、プロモーターが洋楽のアーティストを連れてきたりしてくれて、自分の人脈が全部できたわけ。吉田拓郎とかユーミン(松任谷由実)とか呼んで、キャロルをテレビデビューさせて、矢沢永吉と今でも付き合ってる。出演していた女子大生の中の1人が、石坂敬一(当時・東芝EMI、後にユニバーサルミュージック社長、日本レコード協会会長)の女房ですよ。
そんなことしてたたら今野雄二も有名になって、キンキンと一緒に『11PM』(日本テレビ)に行っちゃった。この『11PM』をやってたのが井原高忠さんなんだけど、俺は井原さんをすごく尊敬していて、高校生の時からああいうテレビマンになりたいって思ってたんだよ。親父の知り合いから読売映画の社長を通じて会いに行って「弟子にしてください」って言ったら、「大学出てからいらっしゃい(※モノマネ)」って(笑)。それくらい憧れてたから、ショー番組をやりたかったんだよ。「とんねるず」って名前つけたのも井原さんだからね。
――縁があったんですね。
『リブ・ヤング!』を始めたときには、シンコーミュージックの草野昌一さんという人にかわいがられて、まだビデオもないから16ミリ(フィルム)の機材持って、ナッシュビル、メンフィス、LA、サンフランシスコ、ニューヨークとか、どんどんロケに行かせてくれたんだよ。それで、フィルムで撮ることを覚えた。それと同時に、チューリップが「魔法の黄色い靴」でデビューするんで、その短編映像を作ってくれと言われた。「心の旅」でも、財津(和夫)が千疋屋の2階にいるのをローアングルから撮ったりして。それを見ていたフォーライフ・レコードを作る後藤由多加から「つま恋で5万人コンサートやるから、ウッドストック・フェスティバルみたいに撮ってくれ」って言われて、どんどん音楽の実績ができていったんだ。
――その『リブ・ヤング!』は75年に終了します。
終わった後に『ニューミュージックスペシャル』って6スタ(フジテレビ河田町旧社屋で最大の広さだった第6スタジオ)に客入れて、スタジオライブみたいな番組を、月に1回、土曜に1時間半とか2時間やって、拓郎とかが出たりしてたんだよ。そうしたら、社内でフォークやロックと言えば俺だなって感じになってきて、林良三さんに「『ミュージックフェア』やってくれないか」と言われて戻ることになった。それが30代前半かな。38歳でプロデューサーになっちゃうんだけど。
――再び『ミュージックフェア』にやってきて、最初に撮ったのは誰だったのですか?
ん~分からない(笑)。はじめの頃は(南)こうせつと(坂本)九ちゃんを撮ったかな。ユーミンも撮ったけど、話題になったユーミンとジュリー(沢田研二)のを撮ったのは斉藤敏ちゃん(ディレクター)だった。あの頃、ユーミンはアルファ(レコード)にいて、敏ちゃんは村井邦彦(アルファレコード創立者)と仲良かったから。俺がユーミンを初めて撮ったのは、『ミュージックフェア』に出て3回目か4回目くらいだろうな。