「さらば三河家臣団」とはちょっとさみしいサブタイトル。大河ドラマ『どうする家康』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第37回では長らく徳川家康(松本潤)と共に歩んできた家臣団にそれぞれ土地が与えられ、別れ別れになっていく。この回で出演がラストとなった大久保忠世役・小手伸也は、本作にユーモアを注入した。

  • 大久保忠世役の小手伸也

■家臣団において中間管理職のような立場として献身

家臣団解散のきっかけは豊臣秀吉(ムロツヨシ)が家康に江戸へ行くよう命じたこと。この頃、江戸は未開の地であった。本多正信は(松山ケンイチ)は「東国の押さえに専念させ……江戸に町を作らせて財を失わせ、おまけに徳川の強みである家中をばらばらにしてつながりを断つ……とことんまで、我らの力を削ぎに来た、とも言えますな」と秀吉の悪だくみに違いないと考える。石川数正(松重豊)を家康から引き離そうとしたのも作戦の第一弾だったとして、それは数正の作戦によって被害は最小限に留まった。でも次は全員引き離す作戦とはなんとも酷い。

秀吉の企みに対して、家康は昔の彼とはだいぶ変わっていて、江戸にひとり行くことも前向きに捉える。実際、山を削って海を埋め立てる街づくりを面白そうに見る家康は、子供のときから木彫りなどの工作が好きだっただけあるなあと感じた。ただの木の枝から人や動物などの形をつくり出していくことと、何もない土地を整備していくことはどこか似ている。

これまで尽くしてくれた家臣団たちに土地を与えていく家康。土地をもらえる城持ち大名になれるとはいえ、故郷・三河をはじめ慣れ親しんだ土地を手放す家康に、誰ひとり文句も言わず従うのは、事前に、正信から頼まれて、大久保忠世(小手伸也)が根回ししていたからだった。回想では皆のサンドバッグになっていた忠世。こんなふうに、いつも、若く血気盛んな家臣たちの兄貴分として働いてきたのだ。数正と酒井忠次(大森南朋)の2トップと若手家臣の間、いわば中間管理職のような立場として献身してきた。

「色男」というキャッチフレーズを持ちながら薄毛なのは、ギラギラとエネルギッシュなスキンヘッドの男性像というある種の固定観念からくるものであろうか。忠世を演じる小手伸也は、薄毛の色男を、たしかにエネルギッシュに、でも、ユーモラスに、かわいげある人物として演じた。

小手の身体の大きさは、体重過多で動きが鈍くなるのではなく、スポーツマンタイプの、動ける大きさがあり、スーツなども似合って貫禄が出る。体の大きな気のいい人というだけでなく、何か企みをもっていそうな雰囲気もある。ドラマ『SUITS/スーツ』(18年/フジテレビ系)に出たとき、外国のドラマや映画に見られる俳優のような雰囲気が起用の決め手になったそうだ。「(プロデューサーが)織田裕二さんのライバルポジションに、この人、誰? みたいな意外性のある人を据えたいと思っていらしたようで、僕くらいの認知度の俳優がちょうど良かったんでしょうね。しかも、ルイスを演じているリック・ホフマンさんに顔や気持ち悪さがちょうど似ていたらしいです(笑)」(ヤフーニュース個人、2020年7月21日公開記事より)。

■『真田丸』『コンフィデンスマンJP』で注目を集める

小手は早稲田大学演劇倶楽部出身。後輩には安藤玉恵がいる。小劇場をホームグラウンドにしてきた小手がテレビドラマで注目されたのは、大河ドラマで『真田丸』(16年/NHK)の塙団右衛門役。出番は少なかったが名刺を配る営業上手のキャラは小手の演技も相まって印象的に残った。

大河後、『どうする家康』の脚本家・古沢良太氏のヒット作『コンフィデンスマンJP』(18年/フジテレビ系)の五十嵐役でさらに注目された。長澤まさみ、東出昌大、小日向文世が演じる信用詐欺師の3人組がメインのドラマだが、彼らに協力する人物が何人かいて、五十嵐はそのひとり。自分もメインのひとりかのような、それこそ「色男」という自信をもっているが、いつも「いたのか五十嵐」と言われてしまう。でも、それなりに役に立っているという絶妙な役割で、いいアクセントになっていた。ドラマの最初の頃は、それほど出番がなく「いたのか五十嵐」のためだけにいたようなところもあったが、どんどん出番が増えて、映画版でも活躍した。

小手が重宝されるのは、先述した、日本の俳優には少ない、オペラ歌手のような、ちょっと色気を感じさせるいい声をしたガタイのいいビジュアルであることのほか、小劇場で脚本や演出も行う俳優としてのアイデア豊富でフットワークがいいことである。『どうする家康』でも家臣団たちの場面で、率先してアイデアを出して場面を活性化させた裏話をTwitter(現X)で語っている。そう、小手はSNSの発言も注目される俳優で、番組広報的な役割でも活躍する。番組にひとりいてほしい俳優なのである。

さて、大久保忠世が長年の功労によって家康から小田原領4万5,000石をもらったのは天正18(1590)年のこと。史実だとその4年後、63歳で亡くなっていて、関ケ原の戦いや大坂の陣には参加できない。第37回では、小田原征伐・北条との戦いのとき「我こそは大久保忠世!」と張り切ってジャンプまでしていた(59歳時設定)が、これが最後の見せ場だとしたらさみし過ぎる。

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