安楽死を願う人々を取材したフジテレビのドキュメンタリー番組『最期を選ぶ ~安楽死のない国で 私たちは~』が、10月7日(25:45~)に放送される。
主に終末期の患者を苦痛から解放するための安楽死。日本では、病に苦しんだ患者が死を望んでも、その自死に関与すれば、医師も含めて「自殺ほう助」「嘱託殺人」などの罪に問われる。一方、スイスをはじめ欧米などの一部の国では安楽死が認められていて、さらに法整備のために国民的議論が始まっている国もでてきている。
2019年、難病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)を患う京都の女性が、薬物を投与され亡くなった。関わったのは2人の医師。嘱託殺人の疑いで逮捕され、現在裁判が行われている。この女性はスイスでの安楽死を望んでいたが、すでに身体の自由がきかず渡航できなくなっていた。
同じく体が不自由になっていた女性が、娘に付き添われてスイス行きの便を成田空港で待っていた。渡航の目的は安楽死。2人は“最期の瞬間”までの数日間をスイスで過ごし、母はそこで帰らぬ人となった。
なぜそこまでして“死”を求めるのか。その答えに近づくため、番組ディレクターはスイスでの安楽死を望む人々を取材した。
丁寧な英語で“なぜ自分が死にたいのか”を黙々と書いている矢島さん(仮名)も難病に苦しんでいた。安楽死の希望を切々としたためた文書を投函し、ポストに「よろしく」と語りかけた。日課の山登りは、無心になって病気を忘れるため。離れて暮らすパートナーとは、安楽死の話題を境に疎遠になってしまった。
東京都在住の良子さん(60代)もまた、スイスを目指していた。難病に苦しみ続け、安楽死を望んでいる。「もう十分に人生を楽しんだ。早く痛みから解放されたい」…彼女の言葉には迷いがなく、着々と準備をしているように感じられた。そして、ある日を境に良子さんと連絡が取れなくなる。その後、彼女から1通の手紙が届く。消印はスイスだった…。
スイスで認められている安楽死は、自殺ほう助によるもの。そしてスイス国内の死亡者の実に約2%が自殺ほう助による死だ。安楽死をサポートする団体を訪れると、そこでは毎日、当たり前のように安楽死が行われていた。穏やかな笑顔で死を迎える人々…。夫や息子、そして孫に見守られて亡くなる80代の末期がんの老婦人、そして、安楽死が社会的にまだ認められていない隣国ドイツから娘を伴ってやってきた難病を患う60代の女性。彼女たちの死に立ち会った。自らの尊厳を守るために、自らの命を絶つことがこれほど壮絶で、静かなものだとは想像もしていなかったという。
安楽死を望む人には“理想郷”のように見えている国、スイス。しかし誰もが“安楽死をする権利”を手に入れられるわけではない。スイスの法律により厳正に求められる「必要書類」は、日本人が手に入れるのは非常に困難だ。その“安楽死をする権利”を手に入れたと矢島さんから連絡が入った。会うと、明らかに晴れやかな表情だった。「“死ねる”と思えるだけで“安心”して生きられるんです…」という矢島さんは、 “死”という“お守り”を手に、病気と闘い前向きに生きる決意をしていた。
コメントは、以下の通り。
■語り・余貴美子 コメント
――収録を終えていかがでしたか?
「安楽死を求める人たちを見ていて、みんな“死ぬも生きるも死に物狂い”なんだという不思議な印象を持ちました。…人間が生きるとは、どういうことなんだろう?と感じています。私自身、70歳近くなって“死”というものを本当にいつも考えます。コロナ禍でも本当にたくさんの方が目の前で亡くなるのをみて、“誰もが経験したことのない死をどうやって迎えるのか?”というのを考えざるを得ない時代ですよね。スイスに安楽死をサポートしてくれる団体があるんだと知りましたし、より深く“死”を考えるきっかけになったなと思います。安楽死を願うスイス人の女性たちは、よく最期を撮らせてくださったなって思いました。でも、“自分の最期の姿は誇らしい”という気持ちだからこそ撮らせてくれたんでしょうね」
――余さん自身は自分の死の決め方をどう考えますか?
「“自分のことは自分で決めたい”って思いますよ。やっぱり…苦しみたくないかな。親がもし望んだら…でも、安楽死を選んだスイス人の女性は、反対しそうな長男には知らせてないじゃないですか。長男はどう思うか、とか考えたら苦しいですよね。もし90歳を過ぎている私の母が病気で苦しかったら、スイスのこの方法もあるよって教えてあげるかもしれないです。身内だったらどんなことがあっても生きていてほしいって思うんですけど、人の幸せとか尊厳ってそれぞれですから。どうやってそこを見極めてあげるかというのも難しいですね。寄り添うとか、人のことに思いをはせるとか、安楽死を考えるときに大切なんだなって思いました」
■山本将寛ディレクター コメント
「“安楽死ができなかったら<死>を考える”…スイスで最期を遂げようとする女性が私に放った言葉です。まだまだ死が身近ではない20代の私は、ハッとさせられました。“死”は同質でないのだと。その“異質な死”を遂げようとする人々はなぜ自然死を望まないのだろうと思っていたことが、今では恥ずかしくなるほどに、彼らはもがき苦しみながら自分の死と向き合っていました。旅立ちを祝いながらの死や、生きたい気持ちとの葛藤に揺れながらの死、孤独な死。さまざまな死を目の当たりにして、誰にでも訪れる人生の幕引きについて、我々はなぜこんなにも話さないのだろうかと、いまだ釈然としません。自分の尊厳のために“最期を選ぼう”とする人々を通して、“最期を選ぶ”という選択肢の存在について考え、議論するきっかけになることを心から願ってやみません。そして自分が、自分の家族や友人がそうなったら…自分ごととして見てもらえれば幸いです」
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