まさかの”不良債権”…阪神、期待外れの成績に終わったFA移籍選手6人。積極…

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 プロ野球選手にとって、フリーエージェント(FA)権の取得は1つの勲章といえるだろう。移籍市場での阪神タイガースは、的確な戦力拡充を見せている。しかし、過去を振り返ると、補強失敗となった事例も多くある。ここでは、阪神入りも期待外れの成績に終わったFA戦士を紹介する。

 

 

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山沖之彦

 

 通算100勝以上という実績を残して阪神タイガースに移籍したものの、1試合も登板できずに引退した選手が山沖之彦だ。

 

 中村高校では、1977年の春はエースとしてチームを引っ張り、センバツで見事準優勝。部員数12名の快進撃は「二十四の瞳」と称されて話題を集めた。

 

 

 ドラフト1位で阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)に入団した山沖は、ルーキーイヤーから規定投球回数を達成するなどフル回転。2年目は15勝を挙げて先発の役割を果たした。

 

 一方、3年目は11勝・15セーブとリリーフでも活躍。1987年に自己最高の19勝を挙げて最多勝利のタイトルも獲得し、球界を代表する投手となった。

 

 1994年オフにFA権を行使して阪神へ移籍。全盛期を過ぎたとはいえ阪神ファンからの期待も大きかったはずだが、山沖はキャンプで右肩に違和感を抱き、そのままシーズンを終了。同年限りで現役を引退した。

小林宏之

 

 千葉ロッテマリーンズで先発、抑えの両方を経験し、後に阪神タイガースへ移籍した小林宏之。ロッテでの実績を考えれば、阪神で残した数字は寂しいものだった。

 

 1996年ドラフトでロッテから指名を受けた小林は、1998年に初めて1軍のマウンドを踏んだ。2002年にリリーフ起用が功を奏し、58試合登板で防御率2.53をマーク。2003年は再び先発に挑戦して2桁10勝を挙げ、貴重な戦力となった。

 

 

 その後も先発として一定の成績を残したものの、安定感に欠けるシーズンもあった小林は、2010年に抑えへ転向。シーズン終盤は打ち込まれる場面もありながら、29セーブを挙げた。

 

 同年オフに海外FA権を行使。だが、メジャー球団からの獲得オファーはなく、中継ぎの補強が急務だった阪神からのオファーを受けて入団を決意。

 

 藤川球児につなぐセットアッパーの働きが期待された一方、シーズンで5敗を喫するなど不本意な投球が続いた。そして移籍2年目は一軍登板もなく、球団から戦力外通告を受けた。

日高剛

 

 2008年のオリックス・バファローズ躍進に大きく貢献したのが、打撃を売りにしていた捕手の日高剛だ。

 

 日高は、九州国際大付高校からオリックスに入団。入団後しばらくは出場機会を確保できなかったが、1998年は78試合に出場。打撃こそ満足のいく結果ではなかったが、今後のステップアップにつながる1年を過ごした。

 

 

 自身初の規定打席クリアは、オリックスが躍進した2008年。打率.269に加えて自己最多の13本塁打を放つなど、打てる捕手として大きく貢献。しかし一転して2010年以降は、当時の指揮官・岡田彰布監督からリード面を指摘されて出場機会が減少した。

 

 そして2012年オフ、FA権を行使して阪神タイガースに入団。再起を誓った移籍初年度だったが、守備中に左太ももを痛めた影響で44試合の出場にとどまった。

 

 2014年はシーズンを通して無安打と持ち味を出せず、同年限りで19年間の現役生活に別れを告げた。

石嶺和彦

 

 長打力を武器に阪急、オリックスで存在感を放った石嶺和彦。チーム状況が厳しいという事実もあったが、活躍してほしい選手ではあったはずだ。

 

 豊見城高校では甲子園出場の経験があり、当時から注目を集める存在に。ただ、死球で左ひざを痛めた影響から、一時は社会人または大学でプレーすることを考えていたという。それでも、球団側からの熱意によって、プロ入りを決意した。

 

 

 石嶺がブレイクのきっかけを掴んだのは1985年。打席数は174ながら14本塁打を放ち、打率も.302と好成績を残した。

 

 そして翌1986年、規定打席に到達した石嶺は打率.300・33本塁打と才能が一気に開花。同球団では計241本のアーチを描いた。

 

 1994年からは、FA移籍先の阪神タイガースでプレー。初年度こそ130試合出場と出番を獲得していたが、残りの2年は100試合未満の出場にとどまり、打撃でも不本意な成績に終わった。

星野伸之

 

 阪急、オリックスで幾度となく2桁勝利を記録した星野伸之も、FAで結果を残せなかった選手の一人である。

 

 旭川工業高校では決して目立つ存在ではなかったが、他の選手を視察に訪れたスカウトが星野の将来性を見出し、ドラフト5位で阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)が指名。自らも予期しない形でプロ入りを果たした。

 

 

 ストレートの球速は130kn/h程度だったが、代名詞となったスローカーブをうまく使って打者を翻弄。3年目に初の2桁勝利(11勝)をマークすると、同年から11年連続2桁勝利という驚異的な成績を残した。

 

 先発完投が珍しくない時代だったとはいえ、登板数のおよそ半分は完投というシーズンも多数。三振も奪える理想的なピッチャーだった。

 

 FAで2000年から阪神タイガースの一員になった星野。しかし、移籍3年間で挙げた勝利数はわずか8。低迷していたタイガースの救世主とはなれず、2002年限りで現役を引退した。

片岡篤史

 

 打撃タイトルの受賞歴もある巧打者・片岡篤史。阪神タイガースではリーグ優勝にこそ貢献したものの、その他のシーズンは物足りない数字に終わった。

 

 1993年から日本ハムファイターズでプレーを始めた片岡は、プロ1年目から打率.290という好成績を残す。新人王こそ逃したものの、リーグの新人特別賞として表彰された。

 

 

 その後は苦しむ年もありながら、1996年はイチロー氏(当時・オリックス)に次ぐリーグ2位の打率.315をマーク。1998年には最高出塁率(.435)に輝いた。

 

 また、1996年から6年連続2桁本塁打を放つなど、長打力も兼ね備えていた。ファイターズには10年間在籍し、2001年オフにFA権を行使。タイガースへ移籍した。

 

 2002年も思うような成績を残せなかったが、タイガースがリーグ優勝を飾った2003年は、クリーンアップの一角として打率.296、12本塁打をマークした。しかし、2004年以降は出場機会が減少。2006年限りで現役引退を決断した。

 

 

【了】