昨年11月の宇都宮駅東口~平石間に続き、今月から平石~グリーンスタジアム間でも試運転を開始した芳賀・宇都宮LRT(次世代型路面電車システム)。今年8月の開業をめざすとしており、予定通り開業すれば、事業譲渡等を伴わず、まったく新規の事業体が鉄軌道事業を開始し、路面電車を運営するのは、じつに79年ぶりになるという。
では、いまから79年前に路面電車を開業させた事業体はどこかといえば、1944(昭和19)年に川崎市電を開業させた川崎市交通局である。今回は川崎市電に着目し、その歴史や廃線跡の現状などをレポートする。
■川崎市電の開業が遅かった背景は
川崎市は大都市圏にあるにもかかわらず、他の大都市と比べて路面電車の開業時期が非常に遅かった。日本初の路面電車である京都市電の開業は1895(明治28)年であり、それから半世紀近く遅れての開業だった。神奈川県下を見渡しても、横浜市は1904(明治37)年、小田原市でも1900(明治33)年に路面電車が開業している。なぜ、川崎市電の開業は遅かったのだろうか。
その背景を知るために、まず川崎市電がどのようなルートを走っていたかを見ると、川崎駅前を起点とし、現在の市電通りを南武線支線と並行するように南下。産業道路に突き当たると、これに沿って北東に向かい、桜本、池上新田などを経由し、塩浜で京浜急行電鉄の大師線に接続していた。つまり、市電は川崎市の臨海部において、大師線とともにほぼ環状線を形成していた。「ほぼ」というのは、完全な環状線にはならなかったからだ。
市電が開通する以前の臨海部の交通を見ると、1925(大正14)年、京浜電鉄(現・京急電鉄)の子会社である海岸電気軌道が、川崎大師駅から臨海部を経由し、鶴見方面に向かう軌道線を建設した。これが、川崎の臨海部における本格的な公共交通の始まりである。
この海岸電軌は世界恐慌の影響で経営難に陥り、間もなく鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道に買収され、鶴見臨港鉄道軌道線となった。しかし、鶴見臨港鉄道の本線と路線がほぼ並行していたことから、軌道線は産業道路建設を機に1937(昭和12)年に廃止された。
その際、一般道路(産業道路)建設のために軌道線が県に接収されたということで、代償として鶴見臨港鉄道に鶴見~川崎大師間のバス営業免許が付与された。これにより鶴見臨港鉄道のバス部門の規模が大きくなったことから、同年11月にバス部門が独立し、鶴見川崎臨港バス(現・川崎鶴見臨港バス)が発足。以後、この臨港バスが、大師線を除けば川崎の臨海工業地帯におけるほぼ唯一の公共交通機関となる。
だが、1937(昭和12)年の日中戦争勃発以降、ガソリンを含む石油製品の消費が統制され、木炭バスなどの代用燃料車(代燃車)が用いられるようになった。太平洋戦争に突入して戦局が悪化すると、木炭・薪・石炭などの代用燃料さえも手に入りづらくなり、運行に支障をきたすようになった。
こうした状況下、大師方面の軍需工場では、「通勤する従業員が川崎駅からバスで1時間、大師線利用で大師駅から徒歩で40分を要し、生産増強に大きな支障」(『市営交通四十年のあゆみ』川崎市交通局)が生じる状況になった。
■臨海部の貨物輸送を担う
このような通勤難を解決するために建設が計画されたのが、市電だった。川崎市は当初、京浜川崎駅(現・京急川崎駅)から臨海工業地域を経由して川崎大師駅に至る市電建設計画を立案したが、当時の東京急行電鉄(現在の東急・京急・小田急・京王など)も独自の大師線延伸計画を持っていたため、一部区間が競願となった。
そこで運輸通信省で審理した結果、川崎駅側から西回りで桜本までを川崎市、川崎大師駅から東回りで桜本までを東急が建設するよう調整がなされた。その後、両社で各々工事が進められ、東急は1945(昭和20)年1月に桜本までの大師線延伸を完了させた。一方、市電は川崎大空襲などによる被害の復旧に努めながら、同年12月に桜本まで竣工させた。こうして両線は桜本で顔を合わせることになったが、『川崎市電の25年』(関田克孝・宮田道一著)によれば、構内でレールは接続されず、乗換えが必要だったという。
さて、市電が全線の工事を完了させたときにはすでに終戦となっており、「軍需工場への工員の輸送」という当初の主要な建設目的は消滅していた。だが、戦後の市電は旅客輸送の他に、新たに重要な使命を担うことになる。臨海工業地帯における貨物輸送である。
その輸送方法およびルートは、国鉄の貨物列車が浜川崎駅から連絡線で市電に入り、さらに桜本から大師線に乗り入れ、各工場等の専用線と接続するというものだった。その際、市電と大師線は線路幅1,435mmの国際標準軌、国鉄線は線路幅1,067mmの狭軌を採用していたので、市電と大師線の一部区間を3線軌条にした。さらに1952(昭和27)年には、港湾貨物の陸上輸送力強化の観点から、大師線の塩浜~桜本間を市が買収し、市電に組み込んだ。この時点で市電の路線は6.95kmと最長になった。
しかし、このような3線軌条による変則的な輸送方式では輸送力に限界があった。また当時、浜川崎駅の貨物取扱量も急増していたが、同駅は周辺を大工場に囲まれ、拡張の余地がなかった。そのため、新たな操車場の建設が急がれた。
こうした背景から、1964(昭和39)年3月に塩浜操駅(現・川崎貨物駅)が開業。これにともない、市電は池上新田~塩浜間(2.12km)を休止した。その後の臨海部の貨物輸送は、新たに第三セクター方式で設立され、塩浜操駅と水江・千鳥・浮島の3地区を結ぶ貨物線3路線を保有・運行する神奈川臨海鉄道へと委ねられた(水江線は2017年に廃止)。
そして1969(昭和44)年3月、モータリゼーションの進展という時代の流れに抗うことはできず、川崎市電はわずか四半世紀の歴史に幕を閉じ、全線廃止となったのである。
■川崎市電の廃線跡を探索
それでは、川崎市電の廃線跡を実際に歩いてみよう。起点の停留所の位置は何度も変わっているが、今回は市電廃止当時の「川崎駅前」停留所の位置から歩くことにする。場所は新川通りのすぐ西側、かつての「さいか屋 川崎店」(現在は「川崎ゼロゲート」になっている)の前である。
市電はここから西進し、現在の市電通りを左折して道路の真ん中を走っていた。市電通りに入ると、すぐに「上並木」停留所(昭和40年代に「商工中金前」に変更)があり、その先の第一京浜国道(国道15号)を渡った先に「第一国道」停留所があった。