1993年11月12日(現地時間)、米国コロラド州デンバーで『第1回UFC』が開催されたことにより、格闘技界の流れが大きく変わった。この大会のトーナメントで優勝を飾ったのは、当時無名のホイス・グレイシー。
これにより、グレイシー柔術の存在が広く知られるようになったのである。ところで、『第1回UFC』にグレイシー一族を代表して出場したのは、なぜホイスだったのか? なぜ最強のヒクソンではなかったのか?
■「抽選で当たったんだ(笑)」
ロスアンジェルス郊外の街トーランスにある『グレイシー柔術アカデミー(現・グレイシーユニバーシティ)』。
エリオ・グレイシー一族の長男・ホリオンが主宰するこの場所を、1994年以降、私は幾度となく訪れた。13年前に他界したエリオ、ホリオン、彼の息子のヘナー、ヒーロン、ハレック、そしてホイス・グレイシーらを取材するためだった。
私と同じ歳のホイスに、初めて長時間にわたるインタビューをした時のことは、よく憶えている。1995年2月の晴れた日。『第4回UFC』で彼が3度目のトーナメント優勝を果たした2カ月後のことだった。
そのインタビュー取材の中で、私はこんな問いかけをした。
「なぜあなたが、グレイシー一族を代表してUFCに出場することになったのか?」
ずっと疑問に感じていたことだった。実力を考えれば、彼の兄ヒクソンが出場するのが自然なように思えたからだ。
ホイスは、表情に笑みを浮かべながら答えた。
「どうして私だったか…それは、抽選で当たったからさ」
間を置いて続ける。
「もちろんジョークだ(笑)。抽選なんてしていないし、兄弟が集まって話し合ったわけでもない。私にはプロとしてのキャリアがなかったから、兄たちがチャンスを与えてくれたんじゃないかな。
でも決めたのは父(エリオ)とホリオン。大会の1カ月半くらい前に出場するように言われたんだ」
■ホリオンの真の狙い
後日、私はホリオンに尋ねた。
なぜ、ヒクソンではなくホイスを選んだのか、と。
彼は言った。
「そこに大した意味はない。ヒクソンでもホイスでも、ほかの兄弟であったとしても(トーナメント優勝の)結果は同じだっただろう。父がつくったグレイシー柔術の強さが証明できれば、それでよかったんだ」
明確な答えは得られなかった。
ホイス出陣に関しては、当時こんな風に言われていた。
「まずホイスが出る。そこで彼が優勝すればOK。だが万が一、ホイスが負けるようなことがあれば次の大会にヒクソンが出ることになっていたのだろう。ヒクソンを切り札として残しておいたということだ」
そうだったのかもしれない。
だが、私はもう一つの戦略がホリオンにはあったように思う。
ヒクソンは重量級ファイターとしては、決してカラダが大きくはない。それでも見た目が、いかにも強そうだ。独特の存在感を醸している。対してホイスは、重量級ファイターたちに交じるとほっそりしていて一見、強そうではない。一般人に近いのである。
「強くなるのに、特別に鍛え上げられた肉体はいらない。必要なのは、グレイシー柔術のテクニックを身につけること。そうすれば小さくても、力の弱い人間でも勝てる!」
そう世界中にアピールするには「ホイスの方が相応しい」とホリオンは考えたのではなかろうか。
実際、『第1回UFC』以降、グレイシー柔術の競技人口は一気に増加した。
強そうに見えないホイスが、筋肉質のケン・シャムロック(米国)、凶暴性丸出しのジェラルド・ゴルドー(オランダ)らに寝技のテクニックでアッサリと勝つ姿を見て刺激を受けた人が多かったからだ。
それまでに運動経験がほとんどなかった者、カラダが小さく腕力に自信がなかった者、あるいは女性たちがこぞって柔術衣に袖を通したのである。
もし、ホイスではなくヒクソンがオクタゴンに入って闘い優勝していたならば、グレイシー柔術は、これほどまでに世界に広がっていなかったかもしれない。ヒクソンという個のキャラクターに注目が集まり過ぎたようにも思う。
結果的に、29年前のホリオンの判断は正しかった。そしてホイス・グレイシーこそが、柔術普及の最大の功労者なのであろう。
次回、『ホイス・グレイシーvs.桜庭和志、90分の死闘! なぜ、タオルが投げ入れられたのか?』を綴る
文/近藤隆夫