■真鶴から湯河原、県境をまたいで静岡県へ

2日目はJR真鶴駅から出発する。駅前の駐輪場付近に人車鉄道の城口駅跡(軽便時代は真鶴駅)を示す案内版があるのだが、現在進められているエレベーター設置工事のフェンスに囲まれた工事現場内にあるとのことで、確認することができなかった。

駅前から国道135号を進み、次の吉浜駅跡をめざす。かつて吉浜村と呼ばれたこのあたりでは、国道が海辺を進む。海風がなんとも気持ちよく、沖合に浮かぶ初島がはっきりと見える。このあたりまで来れば、人車鉄道の乗客たちも、いよいよ熱海が近づいてきたと実感したことだろう。

  • 吉浜駅跡付近で見られる海岸の風景

右手に吉祥院、小道地蔵堂を見ながら進み、さらに50mほど先へ行った美容室のあたりに、人車・軽便時代の吉浜駅跡があった。店舗前の歩道に、案内パネルが埋め込まれている。

さらに進み、新崎川を渡る手前、吉浜郵便局の角から旧道に入る。新崎川に架かる橋のあたりでは、かつて鉄道が走っていたことを思い出させるように、道が緩いカーブを描いていた。

  • 人車鉄道の門川駅跡付近。軽便時代の門川駅は、やや手前の、現在は髙杉書店があるあたりにあった

旧道を300mほど進むと、食い違い十字路があり、ここに人車の門川駅があった。中島モータース前のカーブミラーのところに案内パネルが埋め込まれており、現在、同店舗のある場所がまさに人車鉄道の門川駅だったとのこと。

なお、この門川駅は湯河原温泉郷に向かう客が下車する駅で、当時は人力車や馬車が集まり、にぎわっていたという。前述した国木田独歩の『湯ヶ原ゆき』の最後は、「我々が門川で下りて、更に人力車に乗りかへ、湯ヶ原の渓谷に向つた時は、さながら雲深く分け入る思があつた。」と、夏の夕暮れ時に門川駅から湯河原温泉に向かう道中の情景を描写する一文で締めくくられている。

  • 千歳川を越すと、静岡県熱海市に入る

門川を過ぎ、千歳川を越すと、県境をまたぎ、静岡県熱海市になる。相模国から伊豆国に入ったわけだ。いよいよゴール間近かと思いきや、JR熱海駅までまだ6.4kmもある。千歳川の先で熱海ビーチラインが左手に分かれ、ここから長い上り坂が続く。

■土石流災害の被害を受けた伊豆山地区を通る

今回の廃線跡探索で、人車・軽便鉄道の経路の特定が最も難しかったのは、ここから伊豆山(いずさん)の手前までの約2.5kmの区間だった。というのも、この区間は国道135号の海側が急な斜面になっている。昔の地形図を見ると、断崖の中腹または崖下に人車・軽便時代の線路が描かれている(5万分の1なので、おおよその経路しかわからない)のだが、その痕跡が残っていないのだ。

それにしても、こんなに急峻な斜面を鉄道が走っていたのかと疑問に思ったが、関東大震災による津波で地形が変わった可能性が高い。このあたりは震災による線路の被害を最も大きく受けた区間であり、これが軽便鉄道の復旧を阻んだのである。

  • 国道135号の海側は急な斜面になっている

  • 「各字明細 最近熱海町全図」(熱海市立図書館所蔵)の一部。複写した地図上に、人車・軽便時代の経路を色鉛筆で色付けした

この区間の人車・軽便時代の正確な経路は、熱海市立図書館内の歴史資料管理室で見せていただいた1932(昭和7)年発行の「各字明細 最近熱海町全図」によって判明した。軽便鉄道が廃止されてから8年後に発行されたこの地図には、軽便鉄道の廃線跡(地元では「軽便道」と呼ばれている)がはっきりと描かれている。現在の地図と重ね合わせてみると、かつての軽便道は、場所によってはマンション・別荘地として開発されたり、みかん農園や雑木林になったりしていることがわかる。

このかつての軽便道と現在の国道が合流するのは、伊豆山手前の稲村バス停付近(軽便時代の稲村駅跡)である。この区間は、国道上を歩くしかない。

稲村から少し歩を進めると、源頼朝の信仰が厚かった伊豆山神社のお膝元である伊豆山地区に入る。人車・軽便時代の伊豆山駅は、「走り湯」などのある伊豆山温泉の中心街の少し手前にあった。伊佐氏の著書によれば、かつてガソリンスタンドのあった「わずかな平らな所」が駅跡だというが、そのガソリンスタンドはすでになくなっている。1984(昭和59)年の住宅地図で位置を確認すると、大きなカーブのところに「いなば石油 ガソリンスタンド」の文字を確認できる。現在の星野リゾート「界 熱海」(休業中)の隣接地である。

  • 伊豆山駅跡付近

  • 伊豆山の観光名所でもある「逢初橋」も昨年、土石流の被害を受け、欄干などがひどく損傷した

この伊豆山地区は、2021(令和3)年7月の土石流災害で甚大な被害を受けた。源頼朝と妻・政子が出会った場所とされ、伊豆山の観光名所でもある「逢初橋(あいぞめばし)」も、土石流の被害を受けて欄干などがひどく損傷しており、土石流の恐ろしさを改めて思い知った。

■人車鉄道の熱海駅はどこに?

伊豆山を通過すれば、熱海の市街地は目前である。

ここで、人車鉄道の終点・熱海駅がどこにあったか、先に確認しておくことにしよう。JR熱海駅前に、軽便時代に実際に使われた蒸気機関車(熱海軽便鉄道7機関車)が保存されているので、ここを駅跡と勘違いしそうだが、じつはこの位置ではない。

  • JR熱海駅前に保存されている「熱海軽便鉄道7機関車」。この軽便鉄道は芥川龍之介、志賀直哉らの作品にも登場する

JR熱海駅前から南西に100mほど、現在は「大江戸温泉物語 あたみ」(かつての「南明ホテル」跡地)になっている場所が、人車・軽便時代の熱海駅だった。大江戸温泉の建物前に、人車鉄道の記念碑が立っている。

では、伊豆山から人車・軽便時代の熱海駅まで、どのような経路を走っていたかというと、伊豆山駅を出発した人車鉄道は、現在の熱海病院のあたりまで、ほぼ現在の国道に沿うように進んでいた。

JR熱海駅方面への道が分岐する足川交差点を過ぎると、歩道上に「豆相人車鉄道 軽便道」と書かれた標柱が立っている。ここから右手へ進み、現在のKKR熱海の敷地を通過し、その先の聚楽ホテルのところに出る。そして、聚楽ホテル裏手の細道が、かつての軽便道の名残であり、弧を描くようにして進み、熱海駅に到着するという進路だった。

今回は豆相人車鉄道の廃線跡を2日かけて歩いた。1980年代に伊佐九三四郎氏が調査した当時、人車・軽便が走っていた頃を知る人も存命だったが、いまとなってはその存在すら知らない地元の人も多くなり、人車鉄道はもちろん軽便鉄道も、すでにはるか昔の幻の乗り物となってしまった。今回の記事で興味を持ってくださる読者がいれば、筆者としても幸いである。