ヘレン・ケラーとは、その生涯が多くの本や映画などに記録される、日本でも著名な人物のひとりです。幼いころから「見えない、聞こえない、話せない」という三重苦を抱えながらも、並々ならぬ好奇心と向上心で学問に励み、のちに本の執筆や世界各地の訪問を通じて身体障害者の教育・福祉に貢献しました。

この記事ではヘレン・ケラーの生涯や、サリバン先生のこと、有名な「ウォーター」のエピソードなどをご紹介。名言や、ヘレン・ケラーについて取り上げた伝記や映画などについても紹介します。

  • ヘレン・ケラーとは

    苦難に負けず努力し続けたヘレンケラーの人生に迫ってみましょう

ヘレン・ケラーとは

ヘレン・ケラーは、1880年6月27日、アメリカで誕生しました。父は南北戦争のときに陸軍大尉を務めた人物で、地主でもありました。ヘレン・ケラーはこうした裕福な家庭に生まれました。

ヘレン・ケラーの三重苦とは

恵まれた環境でのびのびと育てられていたヘレン・ケラーでしたが、1882年2月、まだ1歳のときに原因不明の高熱に見舞われます。一命をとりとめたものの、その後遺症で視力と聴力を失ってしまうのです。

視力と聴力を失ったヘレン・ケラーは、話すことも困難になりました。ヘレン・ケラーの三重苦とは、「見えない、聞こえない、話せない」という苦悩のことを指しています。

ヘレン・ケラーの両親

幼くして三重苦を抱えてしまったヘレン・ケラーでしたが、両親は希望を捨てませんでした。遠方の眼科医なども訪ねて診察を受けましたが、視力回復は困難という診断が下ります。

しかし信頼できる人を尋ねるなかで、ベル博士を紹介されます。ベル博士は1876年に電話を発明したことで知られる人物です。ベル博士は家族に難聴者がいたことから、ろう教育にも熱心でした。このベル博士から紹介されたのが、のちにヘレン・ケラーの家庭教師、サリバン先生として知られるアン・サリバンです。

サリバン先生との出会いは、こうしたヘレン・ケラーの両親の熱意が生んだものでもあるのです。

ヘレン・ケラーの幼少期

ヘレン・ケラーの快活で好奇心にあふれた性格は、病気のあとも変わりませんでした。

例えばメガネをかけるという仕草で父親を表現したり、髪の毛を結う仕草で母親を表現したりするなど、家族との間で独自の表現を生み出していきます。こうした身振り手振りによる表現は、5歳のころには60個ほどあったとされています。

ヘレン・ケラーの快活さは時に家族を困惑させたとも伝えられます。ヘレン・ケラーは5歳のときに「鍵」がどのようなものであるかを知り、それを試すべく母親を食糧倉庫に閉じ込め、中からドンドンとドアを叩く衝撃音を面白がっていたというエピソードも残っています。

  • ヘレン・ケラーの先生は?

    ヘレン・ケラーは両親やサリバン先生から愛情を注がれ育っていきます

ヘレン・ケラーの先生とは

ヘレン・ケラーとともに歴史に名を刻んだのが、家庭教師のアン・サリバンでした。

サリバン先生とは

ヘレン・ケラーとサリバン先生の出会いは、ヘレン・ケラーが7歳、サリバン先生が22歳のころでした。じつはサリバン先生も、5歳の時に病気にかかり、ほとんど目が見えなくなっていました。また、父親はアルコール中毒で、9歳の時に母親が亡くなったため、孤児院に引き取られています。

サリバン先生は十分な教育を受けられずにいましたが、たまたま孤児院に視察に来ていた慈善事業の担当者に「学校に行きたい」と申し出て盲学校に進学します。その後、手術を受けたことで視力を取り戻し、盲学校を首席で卒業しました。

サリバン先生は自身の経験からも、目が見えない人がどんな問題を抱えているかを熟知していたと考えられます。

指文字による教え

サリバン先生は、点字ではなく指文字の教育に力を注ぎます。指文字とは、指文字用のアルファベットを指で形づくり、それを手で触らせて伝えるというものです。サリバン先生がヘレン・ケラーに最初に教えた指文字は、「doll(人形)」だったと言われています。

献身的な教えによって、ヘレン・ケラーは「すべてのものに名前がある」ということを理解するようになります。3カ月経ったころには300もの言葉を覚えたともされています。

指文字の教えなどを通して、ヘレン・ケラーは特に触覚を研ぎ澄ませていきます。握手をしただけで、相手の性別や年齢を読み取ってその人を識別していたとされ、握手の力強さからその人の感情や性格なども察していたそうです。

ヘレン・ケラーの「ウォーター」のエピソードとは

ヘレン・ケラーといえば、ウォーターという言葉と覚えたときのエピソードが有名です。まだサリバン先生と出会って間もないころの話で、「井戸端の奇跡」とも呼ばれます。

ヘレン・ケラーが井戸の水に触れたときに、サリバン先生が指文字で何度も「ウォーター(water)」とつづり、それをヘレン・ケラーが理解したというものです。

ウォーターという言葉が指すものがコップなのか、中の液体なのか、飲む仕草のことなのかなど、うまく理解できず混乱していたところを、サリバン先生が井戸へ連れていき、コップに冷たい水を注ぎながら「ウォーター」と指文字でつづります。ヘレン・ケラーは途端にウォーターの意味を理解することができ、自身の本でも、この時初めて言葉の意味することや本質が理解できたと語っています。

この日を境に、それまで頑固だったヘレン・ケラーが素直になり、サリバン先生の教えをよく受け入れ始めたとされています。

  • ヘレン・ケラーとは

    ヘレン・ケラーはサリバン先生と二人三脚で苦境に立ち向かっていきました

ヘレン・ケラーの功績とは

ヘレン・ケラーはサリバン先生との二人三脚で学問に励み、あこがれの難関大学に入学し、しかも優秀な成績で卒業しました。この間の努力がどれほどすさまじいものであったかは、想像するに余りあります。

その後の40数年間、ヘレン・ケラーはアメリカにとどまらず、世界各地を訪問して講演を続けました。福祉と教育のために尽力し、多くの視聴覚障害者を勇気づけたのです。

ヘレン・ケラーの日本訪問

ヘレン・ケラーは3度、日本を訪れています。2度目の訪問は1948年(昭和23年)のことで、当時の日本は敗戦直後でまだアメリカの占領下にありました。そのため多くの日本国民から熱烈な歓迎を受けます。

この2度目の訪問では約2カ月間、日本に滞在して各地を回り、精力的に講演しています。その回数は数十回ともされています。この来日をきっかけに「盲人福祉法」が立案され、のちに「身体障害者福祉法」が制定されました。またこのころ、ヘレン・ケラーの理念を受け継いだ学院や財団などが設立されました。

ヘレン・ケラーの日本訪問は、身体障害者の人権意識などに大きく影響し、福祉制度を充実させるきっかけになるものでした。

ヘレン・ケラーの名言

ヘレン・ケラーの名言として有名なものを紹介します。1948年の2度目の訪問時に、ヘレン・ケラーが講演で語ったものです。

「あなたのランプの灯をいま少し高く掲げてください。見えぬ人々の行く手を照らすために」

  • ヘレン・ケラーの名言

    ヘレン・ケラーの言葉は多くの人を勇気づけました

ヘレン・ケラーの伝記

ヘレン・ケラーは多くの本や映画で、その生涯が記録され伝えられています。

ヘレン・ケラーの本

ヘレン・ケラーは生涯に7冊の本を書いたとされますが、中でもヘレン・ケラー自身がお気に入りとしていたのが「私の住む世界(The World I Live in)」だったと言われます。

この本はエッセイ集で、光や音のない世界で暮らすのがどのようなことなのかを、障害を持たない人がイメージしやすい表現でつづられています。ヘレン・ケラーの人並外れた豊かで繊細な感情を垣間見ることができるでしょう。

ほかにもサリバン先生との若き日々をつづった本「奇跡の人」などが有名です。

ヘレン・ケラーの映画

ヘレン・ケラーとサリバン先生の物語は1962年にアメリカで映画化され、その後、リメイクされています。原題は「The Miracle Worker」で、日本では「奇跡の人」というタイトル名で公開されました。現在もDVDなどでヘレン・ケラーの生涯を知ることができます。

  • ヘレンケラーについてもっと知りたい時は

    本や映画でも、ヘレン・ケラーの生涯を知ることができます

ヘレン・ケラーの生涯を改めてたどってみよう

誰もが知るヘレン・ケラーですが、実はどんな人物なのかよく知らないという人も多いでしょう。「見えない、聞こえない、話せない」という三重苦を抱えながらも、前向きに、輝きながら生涯を駆け抜けたヘレン・ケラーの人生を、簡単に紹介してきました。

逆境のなかでも希望が消えることのなかった彼女の人生。本や映画を通して、改めてたどってみてはいかがでしょうか。