2007年、2008年にピン芸人日本一を決める「R-1ぐらんぷり(現・グランプリ)」2連覇という偉業を成し遂げて独自のポジションを築き上げ、近年はお笑い芸人としてだけはなく俳優としても活躍するなだぎ武さん。
東京五輪の開会式にも登場し、世界に通じるコミカルな演技で注目を浴びたことも記憶に新しいところです。そんななだぎさんに、「引きこもり」経験など波乱万丈で味わい深い半生を振り返ってもらいながら、これからの時代を生きていくうえでのヒントをうかがいました。
■「嫌なことから逃げる」という判断があってもいい
——エンターテインメントの世界に憧れた少年時代、そして芸人を志しプロとなって奮闘した若手時代。これまでの半生について伺いながら、いまの時代を前向きに生きていくためのヒントやアイデアをお聞きしたいと思います。10代後半に「引きこもり」経験があったと2011年に出版された自伝的作品『サナギ』で書かれています。その頃のことを詳しく教えてください。
中学時代にかなり辛いじめを受けていたこともあり、高校には行かず就職するという選択をしました。ただ、その会社もすぐに辞めてしまい……それから約3年間にわたり実家の自分の部屋に引きこもっていました。1980年代のことですから、当時は「引きこもり」という言葉すらなかったように思います。
もちろんパソコンやスマホもなく、インターネットで情報を得るとかSNSで誰かとつながれる環境もなかった。ひたすら好きなテレビを観るとか、近所にいた兄貴的な存在の人から譲り受けた大量の小説やマンガを読んだりレコードを聴いたりしながら、ひとりで過ごしていました。
——中学を卒業後の3年というと、みんなが高校で青春を謳歌している時期ですよね。「このままではダメだ」「どうにかしなければ」といったような焦りや苦しさは感じていましたか?
たまに部屋から出ようとして外に足を踏み出してみるのですが、そのときは息苦しさを感じましたね。部屋のなかは「自分にとっての安全な世界」なので、焦りや苦しみを感じることはほとんどないわけです。ただ、その時間も永遠ではなく、同級生が高校卒業後の進路について考えるあたりからは、じわりじわりと焦りを感じるようになったことを覚えています。
——引きこもり期間の後半には、アルバイトをしてみたり旅に出てみたりと徐々に行動を起こしていったということなのですが、そうなれた理由は焦りがあったからでしょうか。
いや、まわりを見てというよりは、ただ自分の直感に従ったというのが正しいかもしれません。むかしもいまもそうなのですが、「やろうと思ったときが、やるべきとき」だと直感に従って動くことが多いようです。
引きこもりはじめたこと自体も、直感的にそういう判断をしたのだと思います。中学を卒業して就職した会社も無責任に辞めてしまい、うっすらと憧れを抱いていたエンターテイメントの世界を目指す根性もない自分が、とても無価値に感じるようになって……。「ダメな自分が社会に出て、無理をして苦しいことに時間を費やしたところでどうにもならない。いっそ逃げ出してしまったほうがいい」と。
当時はもっとモヤモヤした感じで、そこまで簡潔に考えがまとまっていたわけではありませんが、そんなふうに考えていたはずです。高校に行けば楽しいこともあったでしょうけれど、いまでもあの時間をネガティブにとらえてはいないんです。「嫌なことから逃げる」という判断があっても、それはそれでいいのかなって。
■状況を直視して受け入れることで、次のひらめきは生まれる
——「嫌なことはしなくていい」「嫌いなことからは逃げる」。ある意味、勇気のいることですよね?
そこまでの潔さはなく、まだ若かったからのらりくらりという感じではありますよ……(苦笑)。ただ、そういう時間を過ごしたからこそ、自分の進むべき道が見えてきたというのは間違いのないことです。引きこもるなかでたくさんの漫画や小説、音楽と出会うことができたのは、芸人として生きていくうえでの糧となっています。
——引きこもりを脱する直接的なきっかけは?
ひとり旅に出たとき、旅先で腹痛を起こし苦しんでいたところに旅館の女将さんが通りかかり、体調が戻るまで面倒を見てくれたのです。お礼に少しだけ旅館の仕事を手伝わせてもらって、そこで感じるものがありました。
見ず知らずの他人と関わりを持ちそこまで親切にしてもらったことがなかったのでとても感激し、「人には人が必要なのだ」と考えるようになれ、あたりまえですが、僕ひとりだけの部屋にはほかに人はいませんから、「ああ、人と関わるにはこの部屋から出るしかないんだ」と素直に思えるようになったということです。
ただ、冷静に考えてみれば、ほかの人がいなかったのではなく、親だって僕が引きこもっている部屋のすぐ近くにいてくれました。そういった家族が支えてくれるありがたさにも気づけるようになり、引きこもりを脱してからは、「親を安心させたいな」という心境になりましたよね。
——なだぎさんが引きこもっていたのはいまから30年以上前のことですが、近年では引きこもりの人の数がどんどん増え社会問題にもなっています。実際に引きこもっている人、またはそうなってしまう寸前にある人たちに向けてアドバイスを送るならば?
引きこもることを、「ダメなことだ」と考えて自分を追い詰め過ぎないでほしいですね。「この経験をして先に進めば、自分にとって大事なものがあるよと神様が教えてくれる」。そんなふうに考えてみるのもよいのではないでしょうか。引きこもることで社会から置いていかれるような気持ちになり、焦ることも理解できます。
でも、まずは引きこもっている自分の状況を直視して受け入れることが重要で、焦って落ち込むことが解決になるわけではないのかと……。いまの自分を受け入れることでかすかな光が見えたり、ひらめきが生まれてきたりするのではないかと思います。
——焦らず、受け入れるということですね。
そうなっている状況を絶えず悔やみながら生きていてもまったく楽しくないですよね? 「なんでこうなってしまったんや」「もうどうにもならない」と思っていてもなにもはじまらないし、生きている限り後悔することがあるのはあたりまえなんです。そんなときにまず大事なのは、いまを受け入れることではないかと思います。
■「好きか、嫌いか」をいつも自分に問いかける
——引きこもりから約3年が経ち、18歳のときにNSC(吉本総合芸能学院)の大阪校に8期生として入学されます。
NSCでの1年は、「自分の部屋から出て、これまでの自分を変える1年」と位置づけていました。ぼんやりと芸人という職業に憧れてはいたものの、実際に「お笑い」をできるタイプの人間ではありませんでしたから、それを生業にしようとは思っていなかったのが正直なところです。
ただ、ひとりで入学するのは怖くて……中学時代の数少ない友人の分まで勝手に願書をつくり、自分の分と一緒に送ったんですよ。その友人も怒りそうなものですが、家に届いた書類審査の合格通知を見るなり「吉本にスカウトされたわ!」と大喜びして、面接審査を一緒に受けにいってくれて……(苦笑)。その彼が、その後12年間にわたってコンビを組む相方になったんです。
——NSCでの日々はどうでしたか?
あの1年間はすごく楽しくて、ほぼ同年代の同期たちと、「遅れてきた青春」を楽しむことができました。引きこもる前と変わらず人見知りの激しさは変わりませんでしたが……仲間たちといい関係をつくることができた1年でした。
——NSC8期生の同期には、千原兄弟、FUJIWARA、バッファロー吾郎といったのちにスターとなっていく芸人さんが数多く存在します。
彼らはデビュー前からすでに頭角を現していて、最初にネタを見たときから才能の違いを痛感させられました。自分のネタを見せるのが怖くなってしまうこともあったくらいです。でも、「どんなに恥ずかしい思いをしても、この1年だけでは絶対にNSCに通う」ということだけは心に決めていました。
——引きこもっていた頃からは想像できない変化ですよね。
嫌なことからは逃げる一方、こうだと決めたときには頑固になる側面もあるようで……。
——1年を経て、プロの芸人としての道に進むことになりますが、そのときにはどの程度の決意があったのでしょう?
しばらくはプロという意識で取り組んではいなくて、なんとなくやっていました。「いまの自分にはこれしかない。食らいつかなきゃ」という気持ちはありつつも、十分な熱量をお笑いにぶつけていたかといえばそうでもなく、ずっとフワフワしていたような感じです。
ただ、大阪で活躍していた先輩たちの東京進出が相次いだことで、若手に出番が回ってきました。新たな人材を大阪の番組も求めていて、なんとかテレビに出ることができるようになった。いまのようにもの凄い数の芸人がいるわけでもなかったこともありますし、運よく道が開けていき芸人を続けることができたのです。
——プロとしてのスタートを切ることができたのですね。
凄い才能を持った人たちを目の当たりにしながらなぜお笑いを続けてこられたのかと考えると、お笑いを含めたエンターテインメントが好きだからということに尽きます。嫌いなことに対しては敏感ですから、「いまの仕事が好きか、嫌いか」ということだけは自分自身にいつも問いかけていました。
当然、まわりが凄過ぎて自信を失いかけるタイミングもあったわけですが、そこで自分に問いかけ思いを巡らせるたび、「好きだ」という結論に至るんです。生まれが大阪で、小さい頃からテレビで観るお笑いには楽しませてもらってきたし、エンターテインメントへの感謝みたいなものもありました。
そこに関われているのであれば、なにかを還元したいという思いはありますし、僕のパフォーマンスで元気が出たという声をもらえると本当に嬉しいですよ。
——やはり、「好き」であることは大切なこと。
僕らのような仕事だけでなく、どんな仕事でもそうですよね? 「好き」だと感じられる部分がまったくない世界にいては、その人のいいところを活かせないし、もったいないことだと思います。
■「目標は決めない」という頑張り方もある
——2001年、12年にわたり活動したお笑いコンビ「スミス夫人」を解散。翌年からはお笑いユニット「プラン9」の一員として活動するかたわら、ピン芸人としての活動も開始しました。そして、2007年、2008年に「R-1ぐらんぷり(現・グランプリ)」を連覇し、海外ドラマ『ビバリーヒルズ青春白書』に登場する人物のひとり、ディラン・マッケイのものまねなどで全国区の人気を博します。この転換期には、なにか目標やプランがあったのでしょうか?
自分のビジョンを描きながら人生設計していくことができないので、目の前にあるものに一生懸命取り組み、悩み、試行錯誤を経て、なんとかクリアしていくということの連続でした。
12年ものあいだコンビを続けたことで既に若手ではなくなっていて、さすがにコンビでやっていくのは厳しいなという結論は出ていました。それでもコンビでやっていくなら、ベテランの方々を中心に成熟した芸を披露する「なんばグランド花月」などの劇場で出番をもらっていく必要があって、芸風的にも難しいと思っていたのです。
でも、なにをするのかという将来へのビジョンはまるでなくて。「自分はなにをしたいのだろう」としばらくぼんやり考えているタイミングで、「プラン9」というコンビでもグループでもない、ネタに合わせた流動的なメンバーで舞台に上がるユニットに出会い加入しました。プラン9ではメンバーがそれぞれ自由に活動できたので、ピン芸人としても活動するという方向性が見えてきたのです。
目標がしっかりあればそれは素晴らしいけれど、「目標を決めない」という頑張り方もあるのかなって。それが未来につながることもあるように感じます。
——「R-1」でのブレイク後は、役者としての仕事も増えていますね。役者は、いろいろな人間を演じて見る人の感情を揺さぶる必要がある仕事ですが、やられてみてどうですか?
台本を読み込み自分なりに解釈していくなかで、少しずつですが演技の引き出しが増えてきた実感はあります。ただ、まだ役者としてのキャリアが浅かった頃は芸人としての性が出てしまい、お客さんが芝居中に笑ってくれるとアドリブを入れてもっと笑わせたいと張り切ってしまうこともありました。
ウケればウケるほど頑張ってしまい、さすがに演出家の方に怒られましたね……(笑)。
構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/石塚雅人