パラリンピック東京大会・最終日(9月5日)の朝、雨中の女子車いすマラソンで優勝候補と目されていたタチアナ・マクファーデンは5位に沈んだ。これで今大会、彼女は、まさかの個人種目「金ゼロ」。

  • (写真:PIXTA)

なぜ、2016年リオ・デ・ジャネイロ大会であれほどまでに強かった「絶対王者」タチアナが勝てなかったのか? ピークを過ぎたのか? 稀代のパラアスリートの生い立ちと今後に迫る─。

■ピーキングの失敗

「絶対女王」タチアナ・マクファーデン(米国)は、車いすレースで果たしていくつの金メダルを獲るのか?
これが、パラリンピック東京大会の注目テーマのひとつだった。 5年前のリオ・デ・ジャネイロ大会での活躍は凄まじかった。陸上・短距離からマラソンまで6種目に出場し金「4」、銀「2」を獲得。圧倒的な強さを見せつけたのだ。
「東京では、すべてのレースで優勝するのでは…」との期待もあった。

しかし、結果は予想外のものとなった。
大会11日目、9月3日の『混合400mユニバーサルリレー』(今大会からの新種目)ではアンカーを務め米国チームのVに貢献するも、個人種目では金メダルを獲得できなかったのだ。
今大会におけるタチアナの個人種目成績は以下の通り。

8月28日、陸上・女子5000メートル(車いすT53、54)銅メダル
8月29日、陸上・女子800メートル(車いすT54)銀メダル
8月30日、陸上・女子1500メートル(車いすT53、54)5位
9月2日、陸上・女子400メートル(車いすT54)4位
9月5日、陸上・女子マラソン(車いすT53、54)5位

なぜ、タチアナは勝てなかったのか?
周囲からは、こんな声も上がった。
「全盛期を過ぎた。世代交代の時期に入ったのだろう」
そうだろうか?

そのパワフルな走りから彼女は「ビースト(野獣)」と呼ばれたりするが、競技場を離れると実に穏やかだ。輝きを伴った優しい瞳をしている。
今大会も表情は穏やかだった。だが瞳の輝きが薄く感じた。おそらくは、ピーキングに失敗したのだろう。
2017年以降、彼女は血栓症に苦しみ3度の手術をしている。東京大会が1年延期になったことでコンディション調整が間に合ったかに思えたが、そうではなかったようだ。

■心の中で叫ぶ「ヤ・サマ!」

ソビエト連邦が崩壊へと向かう激動の1989年にタチアナは、レニングラード(現ロシア・サンクトペテルブルク)で生まれた。
背中が裂けていた。二分脊椎症─。
本来、脊椎の中にある脊髄が外に出てしまう症状だ。早急に手術をしなければならない。にもかかわらずタチアナは放置され、手術が行われたのは3週間後だった。何とか生命は取りとめたが下半身不随となる。

親は育児を放棄、彼女は孤児院に送られた。
政情不安も影響していたのだろう、その施設の環境は劣悪だった。20台ものベッドが押し込まれた窮屈な部屋での生活、施設の外に出ることは許されない。必要な車いすもなかった。
そのためタチアナは、床の上を這っての生活を余儀なくされる。3歳になった頃には、足が動かせないために逆立ちをして移動していたという。そんな状況が6年間続いた。

「でも私は自分を悲観していなかった。困難なことがあっても『ヤ・サマ』と心の中でさけんでいたから」
当時をタチアナは、そう振り返る。
「ヤ・サマ」とは、「私にはできる!」という意味のロシア語だ。

はかなくも抱き続ける希望に光が差し込んだのは、タチアナ6歳の時だった。
米国政府の職員で児童支援活動をしていた女性、デポラ・マクファーデンが孤児院を視察に訪れる。
その時、デポラの目に、足が折れ曲がっていて歩けないタチアナの姿がとまった。
「何とも言えない瞳の輝きに魅せられた」と彼女は言う。
デポラは、養子縁組を決め、タチアナは物心がついてから初めて施設の外に出た。そして、米国へと向かう。ここからタチアナの人生は大きく変わった。

「もしあのまま施設にいたら、私は長くは生きていられなかったと思う。だから、いま生きているだけで奇跡。ママには言葉にはできないほど感謝している」(タチアナ)

新天地は、メリーランド州ボルティモア。ここには、障がい者のためのスポーツクラブがあり多くの子どもたちが通っている。デポラは、そこにタチアナを連れて行った。
そこで、周囲が目を疑う出来事が起きる。
車いすレースに興味を持ったタチアナは、その施設の子どもたちと一緒に走った。すると、タチアナの方が速かったのだ。周囲の子どもたちは何年も練習していてレース用の車いすに乗っている。タチアナは病院にあるタイプの普通の車いす。

これには、スポーツクラブで長年指導を続けてきたコーチのジェラルド・ハーマンも驚いた。
「こんな子どもは見たことがない!」と。
それからタチアナは毎日のように、このスポーツクラブに通うようになる。

タチアナが、いきなり速く走れたのには理由があった。
6歳までロシアの施設で、ずっと逆立ちで歩いていた。そのため、本来は強化されにくい部分の(腕の)筋肉が発達、細身でありながら体幹にもパワーを宿していた。

練習を積むにつれ、無駄のない腕の動かし方も身につけ記録を伸ばし続ける。2004年には、15歳でパラリンピック・アテネ大会に米国代表として出場。いきなり、2つのメダルを獲得し以降、東京大会まで夏季パラリンピックに5大会連続参戦している。2014年には、ソチ冬季大会にも出てクロスカントリースキーで銀メダルを胸に輝かせた。
通算メダル獲得数は 20(金8、銀8、銅4)。
彼女の快挙は、それだけではない。2013年には、ボストン、ロンドン、シカゴ、ニューヨークシティの4大車いすマラソンを制覇。その後、このグランドスラムを4年連続達成している。
それ故に「絶対女王」と称されるのだ。

今回の「TOKYO2020」では、自らが思い描くパフォーマンスができなかったタチアナ。
だが、ピークが過ぎたとも、このまま現役を退くとも思えない。
まだ32歳。きっと闘い続ける。3年後、パリの地に瞳を輝かせた彼女の姿があるはずだ。
心の叫び、「ヤ・サマ!」とともに─。

文/近藤隆夫