1995年にドラフト1位で西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団し、2度のゴールデングラブ賞や3年連続オールスター出場など、その活躍ぶりから「レオのプリンス」と称された高木大成氏(高は「はしごだか」)。ケガに悩まされながら2005年に31歳で現役を退くと、第二の人生として選んだ道はコーチやスカウトではなく、「球団職員」だった。
著書『プロ野球チームの社員』(ワニブックス)では、野球人生のターニングポイントが詳細につづられ、裏方としてプロ野球、そして埼玉西武ライオンズを支え続ける高木氏の姿が浮かび上がる。“レオのプリンス”は、なぜ華々しい表舞台ではなく裏方として生きる決意をしたのか。そこには、選手時代に人生を捧げた恩師・東尾修監督の言葉も関係していた。
■現役時代から感じていた疑問
――いきなり私事で恐縮ですが、ダイエー時代から生粋のホークスファンです。高木大成さんには打たれまくったイメージしかありません。
そうなんですね(笑)。確かにホークスは相手チームとして、たぶんよく打っていた方で、工藤公康さんと武田一浩さんは、結構いい打率を残していたと思います。実は初ヒットも福岡ドームなんですよ。相手は外国人ピッチャーのホセ選手で、ライトのフェンス直撃。今だったら(ラッキーゾーンがあるので)ホームランです(笑)。
――プロ野球選手の引退後はコーチやスカウト、解説者になる方が多い印象ですが、球団職員は珍しいですよね。1996年に1軍デビューされて、現役時代から第二の人生については考えていたんですか?
選手時代は、一年でも長く現役を続けることしか考えてなかったですね。私が在籍してた頃、チームはずっと良い状態で常にAクラスなのに、観客数はずっと右肩下がりだったんです。森監督の黄金時代を経て、東尾監督時代には松井稼頭央選手や松坂大輔投手といった超一流といわれる選手が入って来ましたが、それでもお客さんの数が伸び悩んでいるのはどういうことなんだろう……という疑問は現役時代から感じていました。
■戦力外通告は「意外なタイミングでした」
――2005年に戦力外通告を受けた時のことも、本の中で書かれていました。ご本人としては意外なタイミングだったそうですね。
間もなく秋季キャンプが始まるタイミングだったんです。それまでプレーしていたものですから、来年もライオンズでプレーできる可能性が高いと思っていました。
――そういうタイミングで言われることはあまりないんですか?
今は選手会との話し合いの中でいろいろな取り決めがありますが、その当時はまだそこまで整備されていなかったので、ギリギリまで引っ張ることもあったのかもしれないですね。
2003年のオフ、選手寿命を延ばしたいと思って大きな手術をして、2004年は現役10年間の中で唯一1軍に在籍していないシーズンになりました。少しずつ傷も癒えてきて、まだ100%ではなかったんですけども2005年より2006年の方が、自分の中では回復してくるかなと思っていた頃でもあったので。そういった意味でも意外なタイミングでした。
■引退後の選択肢を悩んだ1カ月間
――現役を続けたい気持ちはあったと。
もちろんありました。トライアウトを受けるべきかどうかすごく悩んで、もちろん選手であり続けるのが一番望ましいことだとは思うんですけど、戦力外を受けたときに球団から別の道を選択肢としてご提示いただいたんです。それが球団職員でした。
2004年にオリックスと近鉄が合併し、最終的には楽天が入って12球団になりましたが、当時は10球団1リーグ制の報道もありました。私自身もストライキを経験しましたが、あのときからですよね。古田選手会長が先頭に立って、日本でも「ファンサービス」という言葉が具体的になっていったような気がします。その翌年の2005年の冬、戦力外になった私を球団職員に誘ってくださったのは、ライオンズとしても「ファン獲得のために何とかしなければ」という思いもあったのかもしれないですね。
1カ月ぐらいは悩みました。でも、こんなチャンスを頂けることなんて、めったにないはず。32歳になる年で、サラリーマンになるにはギリギリの年齢かなと思ったので決断しました。あとは、サラリーマンとして成果が出せなかったとしても、スカウトやコーチはその後でもチャレンジできるのではないかと思ったので、思い切ってチャレンジすることにしました。
――現役時代がもう少し続いて40前後のタイミングだったら、サラリーマンの道は選ばなかった。
そうかもしれないですね。私が40歳前後まで現役を続けていたら、チーム内での立ち位置も違っていたかもしれません。
■ファーストへの電撃コンバートが意味するもの
――東尾修さんにも相談されたそうですね。
当時は監督ではなかったんですが、私を育ててくださった恩師でもあるので、「戦力外通告を受けました」と報告も兼ねてご連絡しました。「サラリーマンの話も頂いて、非常に悩んでいます」とお伝えしたところ、食事に誘って頂いて。「サラリーマンという選択肢もいいんじゃないか」と一言頂けたことが、私にとっては大きな後押しとなりました。
――東尾さんは、試合中は強面のイメージでした。実際はどのような方なんですか?
とても優しい方です。本当に人間味があるというか、昔ながらの兄貴肌というか。「お前ら! 飯食いに行くぞ!」みたいな(笑)。やっぱり勝負の世界になると東尾さんもプロフェッショナルですから、強面な部分もあると思うんですけど、すごく選手の気持ちを察してくれる監督でした。キャッチャーからファーストにコンバートするときも、監督室に呼ばれて提案されたことがきっかけです。それこそ、福岡ドームのシーホークホテルでしたよ(笑)。
――そうなんですか! 監督室に呼び出されることって、そんなにあることではないですよね?
そうですね。たしか試合に行く前でしたが、監督から「ちょっと部屋に来い」と連絡があって。急に呼び出されることはあまりないので、「たぶん良いことではないんだろうな……」と覚悟はしました(笑)。
そこでコンバートするように言われて、ファーストが嫌とかそういうことではなくて、ファーストは長距離バッターが守るポジションでもあったので、私みたいな中距離ヒッターだと助っ人が来たらたぶん外されてしまうんだろうなという怖さがありました。とはいえ、ショートやセカンドは守れない。
キャッチャーは憧れではありましたが、プロで1年目やってみて60試合ほどマスクかぶらせてもらいましたけど、体力的なところですごくハードなポジションということが痛いほど分かりました。そのままキャッチャーでやれるのが一番良いと思いましたけど、当時135試合守れる体力は自分にはないと感じていました。あとは、1年目に伊東勤さんのすごさを目の前で見ることができたことも大きかった。
体力がないと技術は向上しません。プロは毎日練習をしつつ、毎日真剣勝負をしていかないといけない。その最前線にいる選手と一緒にやらせてもらって、「1軍レギュラーとして出場し続けること」がプロ野球選手としての最終目標でもあったので、ファーストに挑戦しました。
――そして97年と98年にはゴールデングラブ賞を受賞。やっぱり監督の一言はすごいすね。
そうですね。ファーストは、中学時代にピッチャーをやらないときに守るくらいでしたから(笑)。いきなり1軍の試合でファーストを守るというのは、まさにがむしゃらにというか、ゴロが飛んできたら格好なんかお構いなしで何がなんでも捕らなければいけない。技術がどうこうとか言ってられないので、とにかく必死でした。
たとえ難しいハーフバウンドでも、ファーストは捕って当たり前。その当たり前を全試合やっていかなければいけない。自分にファースト守備の技術があったわけではなかったので、細心の注意を払いながらプレーしていた記憶があります。
■プロフィール
高木大成(たかぎ・たいせい)
1973年12月7日生まれ。東京都出身。桐蔭学園高校、慶應義塾大学を経て、1995年ドラフト1位で西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団。一塁手として97年から98年にかけてリーグ連覇に貢献し、ゴールデングラブ賞も受賞。その活躍から「レオのプリンス」と称された。2005年に現役引退後、西武ライオンズの社員として営業やPR等の事務に携わる。2011年にプリンスホテルに異動。約5年間のホテル業務を経験した後、2017年より再び西武ライオンズの社員となり、現在に至る。